反骨文人



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「信賞必罰は世の習い」(2002/12/29)

 この言葉は人材活用における成功の秘訣を述べたものでは断じてない。これはあくまで人間社会での常識を述べたものに過ぎない。信賞必罰、つまり功績に対して十分に報いるという人材活用法では才能ある人材を活かしきることは不可能なのである。秦末、楚漢争乱の頃、韓信は功績ではなくその才幹によって大きな権力を与えられた。呉子や商子、管子ら戦国時代の遊説家出身の宰相たちも同様である。彼らは自らの才と弁舌、人脈などによって大権を与えられた。

 信賞必罰はそれが行われなければ人々は納得しない。功績を挙げているのに報いられないような勢力には誰もついてこないからである。しかし、その一方でコネや寵愛などの別系統の登用法も活用していかなければ才能ある人材の抜擢などということはできないのである。人材登用においてコネに頼ったり特定人物を寵愛するということは望ましくないとされることが多い。しかし、真に才能を重視することができる人材登用法はむしろこれら「望ましくない」とされる方策なのだ。

 効率的な人材活用という観念においては、信賞必罰こそむしろ人々を納得させる「必要悪」であり、これをもって理想的なシステムとするのは大きな間違いであるといえるだろう。才能ある人間を抜擢する方法はただ一つ、才能への偏愛があるのみである。

「力と正義と平和」(2002/12/28)

 力は正義ではないし、正義は力ではない。平和という熟語は「平らげて和する」と書く。荒れ果てた状況を平らげるためには力が必要で、不和をまとめ上げるためには誰もが納得する正義が必要である。力と正義を兼備することで初めて平和というものが存在しうるといえるだろう。

「戦略的」(2002/12/28)

 戦略とは目先の変化にとらわれず、自らの理想や思想から導き出される大目標(国家の場合は政治が決定するもの)に到達するための計画のことを言う。その計画を推し進める上での障害を取り除くために用いられるのが戦術である。思想や理想なくしては戦略は存在し得ない。戦術とは機に応じて用いられる「術」であり武術や馬術、射撃術と同次元で論じられるものである。一方、戦略とは「略」すなわち計画のことであり、それらとは一線を画すものであるといえる。

 日本人は戦略的な思考ができないという意見をしばしば耳にする。現在の政治改革の様子を見ていてもそれはよくわかる。「不況だから構造改革をする」「グローバリズムの時代だからそれにあったシステムを」「不良債権処理のために組織を作る」……等々。これらは全て戦術的なものである。根本に「日本はどういう国であるべきか、文化や歴史から見てどのような体制を築いていくべきか」というような大きな国家戦略は何もないのである。仮に「極力、現状維持に努める」というのが政府の戦略であったとしよう。ではその維持すべき「現状」とは何か? 本来、多数の政党が存在する国家である日本ならば、それらの政党の数だけ「このような日本」というビジョンが存在して然るべきはずだ。しかし、ちまたで論じられているのは経済回復のためと称する目先の戦術的思考のみである。「これから日本はどうなるか」「構造改革後の日本はどうなるか」というのは予言、予見であってビジョンではない。ビジョンとはあくまで予定でなくてはならないのだ。予見や予言とのギャップを埋めるための手段が戦略なのだと言ってもいい。

 いったい、これまで歴史上で戦略を無視して戦術のみで勝利や繁栄を掴んだ国家が存在したであろうか? 日本の各政党はあらためてその国家戦略を明確に打ち出してもらわねばならない。ましてや、戦術を論じるべき場に置いて戦略策定のための一般論をひけらかして答弁とするなどにいたっては、戦術と戦略の区別すらついていないのではないかと呆れ返ってしまうばかりである。

「勝つために」(2002/11/17)

 戦場におけるもっとも大切な事はなんだろうか。私は「それはスピードである」と考えている。スピードこそは主導権をもたらし、そうして得たチャンスをものにするために必要不可欠なものだからだ。私も現代に生きる兵家の端くれとして「孫子」を研究してきたが、かの書物でもっとも重要だと思えたのは「兵は未だ拙速を聞くも…」の一節であった。万全さを犠牲にしてでもスピードを追求する事には意味があると考えるのである。

 下記で競争社会を批判していながら恐縮だが、これは現代の企業経営・新製品開発戦略にも当てはまるだろう。一つのジャンルの製品を完全に完成させようとするのはむしろ経営にとってマイナスとなるはずだ。ある程度、製品化のメドがたった時点で、すでに新たな製品の開発に着手していなければもはや手遅れとなる。そして利益を上げ始めた製品というのは、開発戦略の視点からすれば化石のようなもので、その製品が開発された頃の常識というのは歴史にたとえるなら「明治時代に江戸時代の常識を振り返る」ようなものなのだ。どのような新技術も発表され、実用化された時点で時代遅れの仲間入り、くらいに考えておかねばならない。本当の新技術というのは未完成で発表されていない技術だけなのだ。実際には完成しかけで強引に製品化したものが次から次へと発表されるということになる。それぞれは未完成かもしれないが、文字通り「段違い」であるため、旧来技術の完成品に対して優位にたてるというわけだ。このテーマに限っていえば「発展性」も売りの一つになる事も関係してくるだろう。

 話が逸れ過ぎたようである。企業経営について書きたかったわけではない。現在、北朝鮮との間に拉致問題に関する交渉(?)が進んでいる。もちろんこの問題に関しては全面的に強気に行くべきであると思う。だが、相手がその強気の条件を飲むまで延々話をし続けるというのは愚策であると思う。一つの長期的決着ではなく、多くの短期的決着を積み重ねていくべきだ、ということだ。今重要なのはこちらの条件を完全に受け入れさせる事ではない。どんな些細な点でもいい、こちら側の条件を反映した合意を日本側の主導で素早く成立させてしまうことである。最初に小さな勝利で主導権を握ってしまうのは勝負事における鉄則であり、ズルズルと攻撃を長引かせれば相手に付け入る隙を与えてしまう道理である。もっとも、すでに手遅れかもしれない……が、まだ大丈夫だと信じなければますます事態が良くない方向に向かってしまうかもしれない。「被害者はこっちだ」などというのは日本側の主張に過ぎない。確かに強力な交渉材料であるが、時間がたつにつれてどのような事実も風化していくものである。メディアがどんなに騒いでもこれを覆すことはできない。日本の政治家は「主導権」の握り方について今一度腹を据え直す必要があるのではないか。

「文明戦争」(2002/11/17)

 結局のところ、“9.11”も「経済モデル」という一種の文明の相違が引き起こした不幸であり、悲劇ではないだろうか? 「敗者が貧しく苦しいのは、敗者の自助努力の不足による」という市場原理主義の勝者と、実際に発生した敗者が激突している一連の流れは今日における「文明戦争」といえるだろう。

 サミュエル・ハンチントンの唱えた『文明の衝突』はその独断的な分類などから批判が多い。しかし、ある種の説得力を有するところはさすがというべきだろう。一神教・多神教の区別なく、古代から文明はお互いを侵略し合ってきた。その国の宗教が多神教であっても「文明」は常に一神教的な性格を持っている。マケドニアはアケメネス朝を打倒して中近東にヘレニズム帝国を作り上げ、ローマはギリシャ・エジプトを征服し地中海を統一した。そのローマを崩壊させ、現在ヨーロッパに君臨しているのがゲルマン諸族の末裔である。東洋では中華帝国が四方に覇を唱え、その地盤を脅かそうとするモンゴル・チベット系の遊牧民と激しい勢力争いを続けてきた。日本でも大和朝廷が九州の隼人や東北の蝦夷(えみし)を侵略して現在の日本を作り上げた。自らを正統と主張し、相手を打倒し、支配する。槍や弓矢が電子数字や書類に置き換わっただけで、現在も変わらぬ光景である。

 アメリカは自らの「市場原理主義」の正統性をもって、イスラムを攻撃した。イスラム過激派は「イスラム原理主義」の正統性をもってこれに反撃したのである。お互いが「お前たちのやり方は卑怯だ」と罵り合い、現在に至るまで殺すか殺されるか、という泥沼の闘争が続いているのである。このような戦争は、部族間や封建貴族同士の儀式のような戦争とは一線を画している。また、領土的野心や食料の奪い合い(驚くなかれ日本の戦国時代の現実はほとんどがこれであった)の戦争とも違っている。邪魔をするから排除するのではない。自らと異なるから潰すのだ。

 我々は「お互いが異なった存在だ」ということをもっと明確に自覚しなくてはいけないのではないか。「常識」ほど国際社会で害悪となるものはない。「文明」にはそれぞれの「常識」があり、他の文明を見て「常識が通じない」と思っているものなのだ。世界経済復興と資源保護という目的のもと、相互理解と並存(融和ではない)を目指すしか「文明戦争」を防ぐ方法はないのではないか。

「国際政治が目指すべきもの」(2002/11/17)

 国際社会はこれからどのように発展すべきなのだろうか? 現実にどのように流れて行くかを予想する事は難しい。だが目標は、理想はどこに置かれるべきなのだろうか。現在、真に世界の覇権を握る事ができる国家はすでに存在しない。存在するのは「かつての覇権国家」であり「地球最強のならず者国家」であるアメリカと「世界の貴族たらんとするNo.2」であるEU諸国、そして再び最強の座に返り咲こうとするロシア、独特の存在感を放つ「アジアの雄」中国、石油基地であり激しい思想を持つ中東のイスラム諸国(トルコ、イラク、イランなど)といったところであろう。ここに「かつての経済大国」である日本が絡んでくるわけである。

 イギリス首相トニー・ブレアは演説でこう宣言した。「相互に助け合うこと、それが結局は相互の幸福に繋がるという事を、歴史が教えてくれている」と。どのような経済政策も平和でなければ機能せず、貿易や産業の発展はその経済圏の治安が守られていることが絶対条件である。戦争が起こらないうちは、戦争を起こさない事がもっとも有効な経済政策である。もっとも、西欧の大国(アメリカ、フランスなど。最近ではロシアの外貨獲得法となっているはず)がいずれも「死の商人(=武器商人)」として巨万の富を築いていることも見逃すべきではないだろうが……。しかし、西欧大国が「死の商人」をして儲けていられるのも、自国周辺が平和であり、比較的治安が守られていることによるのである。そして“9.11”のテロは「周辺」の概念を突き崩してしまった。アメリカにとってイスラム地域は「周辺」ではなかったはずである。しかし、テロリストたちの攻撃は世界の経済そのものに打撃を与えるほどの大破壊が可能である事を立証したのである。

 今こそ国際社会は理想論ではない、実利としての「平和」を追求すべきではないだろうか。それこそが世界経済を安定させ、各国経済・雇用情勢を改善し、穏やかな生活をもたらしてくれるものだと考えるのである。

「“9.11”の事件について」(2002/11/17)

 2001年9月11日、衝撃的な映像がTVニュースで流れた。その時はフィクションの映像かと思ってしまったものだ。しかし、ニュースの雰囲気がそれが現実だと気付かせてくれた。すでに一年以上前の事件となってしまったが、だからこそ語れる事をここでは語っていきたいと思う。

 結局あの事件はイスラム原理主義のテロリスト、ウサマ・ビン・ラディンの計画によるものだという見方に落ち付いた。おそらく事実だろうし、本人もそれを積極的に肯定している。しかし、疑問なのは「あれが一体何だったのか」という事だ。テロで歴史は動かない、という主張がある。だが私はそれを条件付きで反論したいと思う。テロは歴史を変えないかもしれない。だが加速させていく事は確かであろう、と。テロ自体が短絡的で強引な手法である事はこれをお読みの方も同意される点であると思う。そしてだからこそ、テロ計画の成功は歴史の流れを加速させていくだろうと考えるわけだ。今回加速したのはどう言った流れなのだろうか。私はそれを市場原理主義の問題点の露出と見る。アメリカがIMFへの強い影響力を利用して、自由競争の市場主義を布教しているというのは紛れもない事実である。今回のテロはその経済的侵略への破壊的な報復であり、さらにその破壊的報復への武力的宣戦布告だろうと考えられるのだ。乱暴ないい方をすれば『市場原理主義とイスラム原理主義の醜い争い』と言えるかもしれない。

 市場原理主義は所詮は経済的勝者であるアメリカが自らのために布教している自己中心的な思想に過ぎない。市場原理主義はアメリカ人の性格によくあっているようで、ヒスパニック系などの貧困層を除けばなかなかに支持されているようだ。だが、これを肯定するのは経済的勝者のみである、というのもまた事実である。

 市場原理主義は大量の敗残者を生み出す事を積極的に肯定している。そしてそれはアメリカ国内だけでなく、サッチャーを始めとした「アメリカ型モデル支持者」たちによって広く世界中で証明されてきた事実である。敗者を追いこむことにより経済を活性化させようという考えが確かに存在しているのだ。「勝者がより正当に評価される」というのは「勝者がより恵まれ、敗者がより虐げられる」という事と同義語である。だが「勝ちすぎは危険である」という考えや「敗者が勝者に恨みを持つのは当然の事」という常識もまた存在する。そして、恨みを持った敗者というのは、勝者とは異なる自分の得意な方法で勝者に報復するものである。しかし、市場原理主義者は敗者が勝者と同じ方法で再挑戦してくるのが当然であり、他の方法を取るのはルール違反だという考えが頭にある。このようなやりとりが現実に起こったのが“9.11”に始まる一連の流れではないか、と考えるのである。

 “9.11”の報復はテロリストたちだけでなく、タリバンという勢力全体に対して行われた。私は当初「軍隊では個人を捕らえる事は不可能だ」という見解で冷ややかにアメリカ軍を見ていた。だが、私は甘かったのだろう。ブッシュ政権の主目的が「タリバンという勢力の壊滅とアフガン解放」であり、「テロリストの逮捕」は副目的に過ぎないということに気がつかなかったのである。個人を逮捕するために軍隊を動かすような政治家はいない。軍隊とは国家や同じ軍隊を破壊するために用いるものだというのに。そもそも“9.11”のテロは意図的に見逃されたような感じさえある。無論、被害は最低限に抑えるつもりだったのだろうとは思う。しかし、ロシア当局からは事前にかなり明確な形で警告が行われ、アメリカの当局も相当に警戒していたという情報も存在する。日本の某大型掲示板群においても、テロの起こる前に匿名の不穏な書きこみが存在していたのは記憶に生々しい。少なくとも意表を突いた奇襲ではなかったのだ。ロシアがテロの計画を知ったのは、彼らがチェチェンなどでイスラムテロ組織と激しく争っていることによるようだ。プーチン大統領自らがアメリカに警告したと表明している。にも関わらず、テロ計画があのように見事な成功をおさめたのはなぜだろうか。ブッシュ政権がタリバンなど後の「悪の枢軸」を叩き潰すための理由としたかったからではないか……と考えられないだろうか。そしてそのために泳がせていたテロリストたちに土壇場で出し抜かれてしまい、あのような大惨事に繋がったと言うのは想像力を飛躍させすぎた見方なのだろうか。

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