「適時適材適所」(2001/8/23)
- この題名……頭に余計なものが付いている。だが「適材適所」という言葉ではあまりにも不完全だからだと思ったので付け足させていただいたのだ。そもそもこのような人事の話を持ち出すのは筆者が所属するある集団の長が辞任し、副長2人が後始末について協議されておられるようなので、もしこれをご覧ならば一助となるかもしれないと思ったが故である。
歴史においては、ある人にとって適所であった、適所であろうと思われた場所が、時間の経過にともなう状況の変化によって適所ではなくなってしまうことがよく見られる。人物のみならず国や組織を表した言葉に栄枯盛衰は世のならいというのがあるが、理由も無しに衰亡するわけではない。状況の変化ともなって変化できなかったからこそ衰亡するのである。それと同じで優秀や愚鈍という他にも、その人物は現在の状況にあっているかどうかが人事において重要なファクターとなるのだ。例え、機転に富み、思慮に長けた人物であってもその性質が周囲から浮いていればその人物を使う場合には注意しなければならない。有能ということが即その成功を約束するわけではないのだ。その有能さが周囲から要求されているかということの方が重要な意味を持つ。
衰亡しかけたローマに隆盛をもたらしながら、平和になった途端元老院から恐れられて殺されたユリウス・カエサルを考えてみればいいだろう。平和なローマに求められたのは穏和なオクタヴィアヌスのような人物であった。天下の統一にむいていたのは野性的なエネルギーに溢れた信長や秀吉のような人物であった。だが、統一後の日本が必要としたのは「地に足のついた」家康であったのだ。前漢の韓信の自嘲の故事を引くまでもなく、適材適所は適時かどうかによって大きく変わるのである。有事のリーダーにふさわしい人物は平時のリーダーにはふさわしくない場合が多い。チャーチルが活躍する機会を与えられたのは戦時中だけであった。改革や戦争などの有事には我が強く機転と決断力に溢れた、時には悪をも平気で行う人物がよいだろう。しかし平和や安定を望む時期には協調性と思慮、忍耐強さをもった人物こそがふさわしい。
責任ある地位には有能な人物が就くことが望ましいのは確かである。だが、その有能さは時流から求められている有能さなのかをよく考える必要があるといえるだろう。そうしなかった場合選んだ側と選ばれた側の双方に損害を与えかねない。それは間違いなく不幸であろう。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(byダグラス・マッカーサー)
「矛盾を受け入れろ」(2001/8/22)
- 人のいきる世界は矛盾だらけである。これはそもそもどういう理由によるのだろうか? そもそも人が矛盾だらけの生き物だからだろうか? だが、矛盾を解決したいからと言って矛盾を構成する要件である、例えば故事の「どんな楯も貫く矛」と「どんな刃も防ぐ盾」の片側を否定するというのはきわめて危険なことであると言える。理屈の上では両者は並び立たない。が、実際の世界は理屈だけで解決できるほど単純でもなければ、つまらない世界でもない。ならば我々は理論上でどうやって矛盾を受け入れるべきだろうか? 簡単なことである、矛盾は矛盾としてそのまま受け入れればいいのである。矛盾を解決しようとしても解決できないのはそもそも矛盾は解決すべきではないということである。矛盾は解決するのではなく包括すればよいのだ。ちょっとした視点の変換である。矛盾が貴方の前を遮るのなら道そのものを変えてしまえばいい。代わりの道がなければ作ってしまえばいい。矛盾という一つの局面に捕らわれてしまうから何も見えなくなってしまうのだ。その局面をそもそも無意味な物にしてしまえる方策などよくよく考えればいくらでもあるはずだ。
「善に頼らず理知に頼れ」(2001/8/22)
- 題名をもっと俗に言い換えれば「進んで偽善者を目指せ」となる。そもそも「腹を割って話せばわかりあえる」だの「誠意」だので解決しようというのは、世の中の人間が同じ哲学や感覚、境遇をしているとでも仮定しなければ無理な話である。そして言うまでもなくそんなことはあり得ない。「善」とは己をさらけ出して素のままで勝負することであり、「理知」とは全てにおいて思考して己を操作して勝負することである。理知は少なくとも善ではない。なぜならば故あれば悪をも行うことこそ理知であり、己の素をさらけ出さず腹の内を隠すことこそ理知の理知なるものであるからだ。歴史を見ればそもそも人間という生き物は素のままでは救いがたいほど愚かな生き物であることがわかる。だからこそ哲学や宗教などが生まれ、この救いがたい生き物に理性を与えようとするのである。人間とは他の獣と比べて高い知力を持つ。だが高い知力を持つが故に人間は自滅をも可能にするほどの破滅的な放縦さを兼ね備えてしまっている。他の獣より多くが見える故、多くのことが出来るが故に重大な過ちを犯す可能性が高いということだ。このような人間が果たして素のままで幸福になれるのであろうか? 断じて否であると思う。思考してこそ人間であり、思考しなければ獣にもなれぬただの厄介な寄生虫である。思考しても誤ることは当然あるだろう。しかし、それが人とその社会を少しでも近づけていくことになるのではないだろうか?
人の感覚は個人の物だ。感覚を共有しあってそれを完全に近づけるというのはまず無理な話だろう。だが理知は違う。書物などによっても共有できる部分もある。人と語り合うことでさらに深遠なものにしていくことも可能だ。人間が今より前進したいのならば間違いなく理知に頼るべきである。それこそが獣をはるかに越えた危険性を持った人間を律することができるのである。そして「現状維持」が許されないというのは現在の世界の病みきった姿を見ればわかるはずだ。 「大した人間などいない」(2001/8/19)
- 世の中、どんな偉大な人間であろうと一般人とそれほど決定的な差があるわけではない。とはいえアレキサンダーやカエサル、始皇帝や豊臣秀吉のような行動を真似るのが簡単だというわけではない。だが、あなた自身と彼らの間に大した差がないのは事実である。彼らは貴方よりほんの少し頭がよく、ほんの少し運に恵まれている程度だろう。もし大いに違う点があるとするならば人生を生きる態度だろう。果たして現代に生きる日本人は極限まで自分を使いこなせているだろうか? そして自分を使いきる環境を貪欲に求めているだろうか? 真似が出来ないのではない、真似する気が起きないだけなのだ。
現代の世の中は政治や経済などで多くの人に専門的知識が要求される。特に政治と経済というのは人間が社会的な動物である限り絶対に存在するものである。この2つが理解できないという方は自分はかなりマズい状態であるということを認識しておいた方がよろしいと思われる。無論ながら、「俺はこの世で一番政治がわかっているんだ」というのは行き過ぎである。が、政治と経済についてくらいはもし貴方が「国民」たらんとするのであれば理解できないことは恥じるべきである。どんなに偉い経済学者や政治家が小難しい論を並べ立てているとしてもよくよく聞いてみれば常識を述べているだけのことである。「学者先生のおっしゃることはようわからんから……」と言って思考を投げ出してしまうというのは自分を奴隷に貶めるようなものであるということは否定しようのない事実であろう。「王侯将相寧んぞ種あらんや」(by陳勝)
「果断ノススメ」(2001/8/19)
- 困難な物事にぶつかった際にこれを積極果断な行動で叩きつぶすか、あるいは慎重に様子を見るかは個人の性格や能力次第で柔軟に対応すべきであろう。だが、私はあえて果断な行動をおすすめしたい。マキアヴェッリは慎重にことを構えることに肯定的であり「事態には変化が付き物であるので、それまで困難だったことがそうではなくなることは大いにあり得る」とし同時に「慎重にじっくり考えることでそれまで思い浮かばなかった解決策が浮かぶかもしれない」と言っている。だが、マキアヴェッリの同時代と人物であり彼の友人であったグイッチャルディーニは「幸運は幸運だけではやってこない。同時に不幸も連れてくるものだから、待っていても根本的な解決には近づかないものだ」と言っている。私はこちらに賛成である。
無論、自殺行為はいただけない。だが進むも地獄、退くも地獄であるような場合は一時も迷わず果断な行動を取るべきである。なぜならば「待つ」ことは状況をそのままにしておくということであって事態の変化を促すものではないのに比べ、、果断な行動はそれ自体が状況に対して大きな影響を与えるものである。果断な行動そのものが事態を動かし困難を打開するということは大いにあり得ることなのだ。困難に陥っているのが貴方だけであるにしても、その状況は貴方だけが創りあげたものではない。貴方自身の積極的なリアクションが「貴方以外の状況の創造者」を動かすと言うことは大いにあり得ることなのだ。「賽は投げられた」(byユリウス・カエサル)
「視野」(2001/8/19)
- この能力は人が生きていく上で最も重要な物であると言えるだろう。実際の視野は盲導犬などで補えるかもしれないが、思考する上での視野の狭さは致命的と言える。『大局的』という言葉がある。おそらく将棋や囲碁あたりから発達した言葉であろうが、最終的な価値、つまりは1つの局面だけではなくいくつもの局面を包括した視野のことを指してこう言うのである。これにはいかに物事を遠くから小さな物として捉えられるかにかかっている。直面するのはむしろ個々の局面であろう。しかし個々の局面とは最終的な勝利が得られなければいくら善戦しても意味を為さないのである。目先のものをいかに軽んじて終結を見通し続けられるかが鍵になると言っても過言ではないだろう。感情の変化や多少の突発事故などが入る余地などなく、そのようなものを計画策定に介入させてはならないのである。その都度終結に向かうように微調整すればよく、それには大きな視野が欠かせない。自らの研鑽の目標を見いだしかねている人は、このような大局的視野の育成をお薦めする。企業経営から政治、サッカーなどのチームスポーツまで、およそ多数の人間による競争世界では例外なく役に立ってくれるはずである。少なくとも「2時間でわかる〜〜!」だの、「孫子に学ぶ〜〜」、「こうすれば営業は成功する!」あたりの本を読むよりよっぽど意義深いと思うのだが。
「いつまで子供?」(2001/8/19)
- 日本人は先進国の中では稀にみる子供な国民である。日本人はそもそも政治に参画するということの意味をいまいち理解できていないのである。政治とは詰まるところ現実世界において皆の最低限以上の生活を保障するための共同体運営のことである。しかし日本人には現実世界ではなく理念的に正しい社会(=ユートピア)を創ることを目指すための存在と勘違いしている人が多い。つまりは日本人の政治的アプローチは常に現実から乖離したところから始まり、大方の場合は乖離したまま終わるということである。これは政治と言うより宗教であり、日本人にとっては政治は宗教と区別が付かないものなのである。おそらくこれを読んでいる方の中にも「信じる対象が違うだけで宗教と違わないだろう?」と思った方はおられるだろう。とんでもないことである。宗教とは信じるための物であって、宗教によって救われない人はその人が宗教の方に合わせるしかない。しかし政治とはあくまで手段である。政治によって救われない人がいれば政治の方が変わらねばならないし、変えてもかまわないのである。ある手段が成功しない場合に別の手段に変更するのは全く当然のことであると思われるがどうだろう。
それを考えたときに政治と宗教の区別が付いていない日本人が国際政治の場で主導権を握れないのはむしろ当然であろう。政治と宗教を比較した場合に宗教の方が著しく柔軟性を欠いていることくらい誰にでもわかるはずである。日本の参政権を持つ世代の政治哲学の低レベルさは嘆かわしいばかりである。小沢一郎が「日本改造論(日本人改造?)」という本をブチ上げたのも無理はない。考えていることと言えば「うるさい韓国を黙らせたい」「アメリカに一泡吹かせにゃ気がおさまらん」「やっぱり日本が悪かったんだぞ」「アメリカだって悪いじゃないか。どっちの責任も追及しよう」……etc.
ネット上で見る大半の論者は理念第一で現実を見ていない、あるいは現実を考慮することを低次元と見る論者すらいる。彼らは自らの正義やユートピアの存在を主張する新興宗教の信者と何が違うのだろう?(そして彼らは往々にして新興宗教は馬鹿にしているものである。レベル的に一緒だと気付かないのはある意味では幸福かもしれない)あるいは人間の手ではユートピアを作ることは出来ないと自覚しているだけ新興宗教の方がマシだといえるかもしれない(だから彼らは神にすがるのだ)。理念的世界だけ、彼らが見たい世界だけで通じる論法が現実世界で通用するわけがない。だが、現実を見据えた論者はいまだ少ないものである。
いったい我々は太平洋戦争で何を学んだのか? 敗北の記憶しかないとすれば日本人とは救いようのない人種であろう。いいかげん、自分の見たくない世界も見ようではないか。それができないお子様は寝る時間なのだ。「天国へ行く一番良い方法は地獄への道を熟知することである」(byニコロ・マキアヴェッリ)
「雄弁政治」(2001/8/19)
- 政治の術策の1つに弁論術というものがある。これは現代よりもむしろ古代ヘレニズム世界やローマなどで盛んであった。何しろ、古代ではマスコミやジャーナリズムなどが未発達だったので、番記者が向こうから情報を取りに来てくれたりはしなかったのだ。選挙の立候補や政策の提案など、およそ政治家が担当するほとんどの活動に雄弁は欠かせないものであった。「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉があるのだがこれはポイントでのこと、しゃべらないことにはお話にはならなかったのである。現在これで株を上げているのが小泉首相、そしてやや暴走気味ながら田中外相も入るだろう。この2人は政治的パフォーマンスで人気を集めている型の人物で人気先行といえばそうかもしれない。一方これでさらに株を下げたのが鳩山民主党党首である。もともと民主党のブレーキだと陰口を叩かれていたのだが、弁舌の差でさらに水を空けられてしまったというつくづく流れに乗れない人物である。同じく民主党の菅氏はこちらはむしろ整然とした弁舌を売りにしているものの、この人もパフォーマンスとしてはやや不足気味なのかもしれない。野党というものはそもそも雄弁家がいて初めて機能する。大カトーのような骨太の弁士の登場を期待したいものである。
「……これで私の演説を終える。が、何にせよカルタゴは滅ぼされなければならない」(byマルクス・ポルキウス・カトー)
「ニッポンの法制度」
- 小泉首相の所信表明演説でなかなか流行りそうな言葉が使われてたのだが、「治にいて乱を忘れずは政治の要諦であります」とのこと。ほんとに民衆受けする人だ、と思ったものだ。しかし、実際そのとおり!! 現在憲法改正、特に第九条についての論争は激しくなっております。ところが、この成文法の意味を履き違えている人が実に多い。ある40代の男性が新聞に投書していたのだが「憲法第九条の精神は世界に誇るべきものであり、変えるべきではない」とのこと。「国際協調が重要な時代にあっての憲法第九条改正は周辺に刺激を与える」とも。何を考えているのか!? まずもって憲法とは「理想を掲げるスローガン」ではないのだ。憲法とは刑法や行政法の根幹をなす法であり、常に現実に即し、機能すべきものでなくてはならない。ところが、実際に自衛隊は必要であり、素直とも思えない解釈で半ば法の門外漢として自衛隊は存在しているのである。有事法制もほとんど定められておらず、現在自衛隊が戦うことがあればおそらくロクに機能もできぬまま負けてしまう公算が高い。軍事費に大金をかけているからといって自衛隊は機能的な防衛戦力ではないのだ。今の自衛隊は状況に合わない憲法遵守と周辺情勢的な必要性が中途半端に入り混じった精神の象徴である。これを直視せずに単なる理想的スローガンとして反対を論じるのはもはや滑稽というべきだろう。
「一生懸命やったんです」
- なんか予告と違うテーマになったが……。この前、相方とトンカツ屋で飯を食っていたとき、精神年齢が幼稚園児並のやつがいて云々、という話になった。はっきり言って俺はこの言葉が「大っ嫌い」である。自分で使うなどとは以っての外だ(つまり俺がこの言葉を使っているとすればそれは擬態である。注意せよ(爆))。確かに責任逃れには使いやすい言葉だが、責任逃れでも俺はもう少しマシことを言うだろう。なぜか。この言葉はもう少し詳しく言えば「一生懸命やっても私はこの程度のことしかできない無能な奴なんです。だからこれ以上責任を追及するのは勘弁して下せぇ、お代官様」という意味になるからである。無論、一生懸命するのは実に結構なことだと思う。しかし、それをいいわけ・弁解の意味で使うというのは上記のような内容を言っているのと全く同じことだと言っておく。俺ならせめて「向こうも中々やるようでした」とか、「油断のあまりミスをしてしまいました」とでも言う。2つとも常套手段としてよく使われるが、自分をおとしめない分だけ余程上等である。自分すらおとしめるようなやつ、付け加えるならこれを弁解として使うやつは自分で自分をおとしめていると気づいていない、をどうやって人間的に信用しろというのか。少なくとも恐ろしくかっこ悪い、ダサい人間であることは確かである。今まで知らずに使ってきた人は、せめて今度からは上の2つを使うことをお薦めする。
「己を知る」
- 皆自分の事をわかっているのだろうか? まあ、身長体重くらいならわかってるんだろうが……。孫子でも言われるこの言葉はつまるところ、自分の限界を知れ、ということだ。自分がどの程度までの逆境なら耐えられるか、どのくらいの高みまで到達できる人間なのか、自分の才能は〜の分野ではこれくらいできて、〜の分野ではこれくらいできる……等々。おそらくこれを知ってる人はほどんどいないと思う。それどころか現代人はこれを勝手に、しかも恐ろしく低く見積もる傾向があると思う。実際できるかもしれないことをやめてしまったり、最初から次善の策しか考えてなかったり……かと思えば、ろくに限界を知りもせず「やってみなければわからない!」などというやつもいる。バッサリ斬ってしまえばどっちもアホである。まあ、時々の俺のようにわかってやってるという例外もいるので、一概には言えないだろうが。真の賢い奴とは、自分が何とか通っていけそうな道を組み合わせていき、最終的に自分の望む地点へのコースを作成できるやつである。これには冷徹なまでの洞察力と視野の広さが関係する。……そこの眼をそむけた人。眼をそむけるな。自分には才能がないと思い込むことが、こういう点では一番の害悪となるからだ。無論、自分は世界の支配者となる男だ!と思い込むのもまた同様。人にはそれぞれ性格・能力に応じた『道』というものが用意されている。考えたからといってすぐに思い浮かぶような代物でもなかろうが、最初からコースを決めてしまい、考えただけでも自殺したくなるような人生像を勝手に作り出すようなアホよりよほど立派でかっこいい生き方と思わんか?俺はそう思う。
「冷徹」
- 冷たいことは悪徳ではない。下手な温情主義が今の日本の加害者擁護につながっていることからもわかるだろう。冷たい事が悪徳ではないし、優しいことはそのまま美徳といえるわけではない。逆もまた然りである。「冷徹」と「冷酷」という2つの言葉を比べてみるとわかるだろう。この2つは共に「人間的に冷たい」という意味を有しているが、むごい・無慈悲という意味は「冷徹」には含まれていない。結果的な行動が重なるときはあるかもしれないがこの2つは全く異質の言葉である。人間が他の動物と異なる点に「理性」というものがあることを考慮に入れればむしろ「冷徹」は美徳と考えられて然るべき物であろう。
「机上の空論」
- よく会議などで、実際の前例がなく理論のみの提案はよくこうそしられる。なるほど、「実績があるのか?」と問われれば前例のない革新的な提案は退かざるを得ない。もしそれが実際には極めて有効な提案であったとしても、だ。こういう事態はこの言葉が未完成のままに流布しているからこそ起こるのだ。この言葉は「机上で通用したからといって、実際に通用するとは限らない。机上ですら通用しないような提案は言うまでもない」というのが正しいだろう。実際、机上の空論を退けて、机上ですら成り立たない理論を押し通し、結果失敗に終わった例は歴史上に山ほどある。辞書に書いてあるからといって、自分のわがままを押し通すためだけにこの言葉を使うような破廉恥漢にだけはなりたくないものだと思う。