反骨文人



2003年前半の文章へ

「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」(2004/1/25)

 題名からして盗作で申し訳ない。自分が死んだら地獄で高杉晋作に金でも払っておけばいいのだろうか。とはいえ、私が殺したいと思っている耳障りでやかましい生き物とは、カラスの事ではなく性質の悪い「鸚鵡」である。日本のエコノミストが全員そうした鸚鵡だとはいわないが、とにかくアメリカの経済学者の口にすることは全て正しい、アメリカの経済学こそ全ての指標だという鸚鵡学者どものことである。さっきもTVでディベート番組を見ていたが、こうした輩が勿体をつけてつまらない経済学講義をやっていた。彼らの経済学とは結局のところ国民総生産などの「数字」を上昇させる手段に過ぎない。経済などというものが所詮、人間が社会を形成する上での道具に過ぎないという点を全く無視しており、経済競争こそを目的といわんばかりの空虚な議論を展開していた。全くもって嘆かわしいのだが、これで本職の学者だというのだから恐れ入る。
 経済こそは政治を動かす重要なファクターである。いやむしろ、経済のために政治が存在するといってもいい。それは同時に、政治に介入されない経済など人間社会の役には立たないということでもある。経済は政治を左右する、それは具体的に言えば富と貧困を生み出すということだ。両者がただ無秩序に生まれるのでは困るから政治がそこに介入するわけだが、鸚鵡どもはここで決定的な勘違いを犯す。無秩序と自由を取り違えるのである。無秩序とは単なるカオスであって自由ではない。意志ある前進を迷走とはいわないように、無秩序を自由とは表現しない。自由化大いに結構、腐敗した体制など百害あって一利無しである。だがそれは決して放任してよいということではない。「自由」を謳う以上、それはあくまで「公共の利益」を阻害するものから解き放たれた、という意味でなければならない。信念や節度、そうした一種の不文律をもった人々によって作られた一種の箱庭世界、そうした中で初めて実現可能なものが自由なのである。だから人は自由を守るために戦いという暴力を行使するのだ。自由とは権力や暴力といった強い力によって創られ、守られるものだ。自然状態に戻しても、それは単なる無に過ぎない。
 ただ規制や保護を撤廃し、無法な放任状態を生み出すのは自由化とは表現しない。貧困を招くような経済政策は自由経済ではなくただの無秩序経済である。こんな簡単なことも理解できない鸚鵡どもが日本には多すぎる。ひたすらに自助努力を促す経済思想など、それはすでに経済学ではない。誰も貧困や飢餓など望んではいない。望まないものを甘受しなければいけないのが自由であるなどという文字は、少なくとも私の辞書には存在しない。貧困や飢餓が政情を悪化させるのはいうまでもないことだが、鸚鵡どもはこうしたことも理解できないのではないだろうか。一国の経済だけが上昇しても人間社会には何の益もない。マルクス主義に戻れという気はないが、単なる市場主義はもはや限界を迎えている。もう少し常識を持った目で、人間社会をマシな方向へもっていくための「経済という道具の使い方」を考えて欲しいものだ。それでこそ学者というものである。

「グローバルスタンダード」(2003/12/22)

 何かにつけて世界を意識するのが最近の日本のトレンドである。何しろ日本は海洋貿易国家、世界を相手に商売しなければ明日のご飯のおかずにも事欠くことにもなりかねない。自分の殻に引きこもって自らを映し出す鏡を捨ててしまうのは愚かなことだから、世界を意識するのは良いことだとは思う。だが、世界を意識する際に「グローバルスタンダード」なる怪しげな単語を使用するのはいかがなものだろうか? そもそも世界は均一でもなければ統一された価値観があるわけでもない。グローバルスタンダードなるものが存在するためには「世界には確固たるスタンダードが存在する」という前提がなければならないのだが、この狭い日本という国に限ったところでそのようなものがあるとは到底考えられない。
 とはいえ、この単語が持つ影響力はなかなか強力である。例えば「○○国の司法制度はグローバルスタンダードです」という文章をつくったとしよう。はっきりとはわからないが、なにやら誉められているらしいという感じはする。明らかに良い意味を持った言葉として通用しているのだ。しかし、よく考えてみればこれで喜ぶ方がどうかしていると思えてくる。そもそもグローバルスタンダードとはどこの誰にとってのスタンダードなのか? また、そんなものが存在したとしてグローバルスタンダードとはどういった指標であるのだろうか? 世界がグローバル化しているからそのスタンダードに、というのは明らかに「世界が均一でない」という基本を無視した妄想に過ぎない。
 実際、この単語が使われるのは、根拠の無い理論に説得力を持たせたい場合がほとんどだろう。例えば竹中平蔵氏はアメリカの真似を是とする論理を展開するが、さすがに「アメリカの真似をしましょう」と公言するのは憚られるのか「これが世界経済のスタンダード」などといわんばかりの詭弁ぶりを発揮している。進歩的と呼ばれる人物でも「グローバルスタンダード」などという単語を使う人間は中身の無い空論屋であったり信用ならない詐欺師まがいの人物ばかりだ。くれぐれもイメージに振り回され、ありもしないスタンダードを信用したりせぬよう注意を喚起する次第。言葉が違う、通貨が違う、食べ物も違えば気候も違う。のっけから違うことだらけの世界にスタンダードなるものなどあるはずもない。

「現実から乖離した『肩書き』の議論」(2003/12/22)

 中東の騒乱と日米外交の推移について、TV・新聞を始めとしてネット上の個人レベルの議論にいたるまで、過熱気味ではないかと思うほどの盛り上がりを見せている。そうした多くの議論を見るうちに非常に気になったことが1つある。彼らの議論の中には民主主義、資本主義、市場原理、独裁といった抽象的な単語ばかりが並び、イラクの個別の問題には触れようともしていないということだ。彼らの論調を見ていると、世界というのは「Aは○○主義、Bは××主義」というように肩書きで分類できてしまうもののようだ。
 実践に参加していない人間は無責任なイデオロギーの論理に走りがちだが、そうなってしまうと単なる言葉遊びの類となってしまい、真剣な議論とはなりえない。現実世界に通用するのは現実が起点となった俗物的な論理なのである。人々が国家や政権を承認する理由はただ一つ、それらがないよりマシだ、という点にある。空虚なイデオロギーの世界ならばいざ知らず、現実にはユートピアなど存在しない。共産主義のユートピア性は数多くの弾劾によって広く知られたところだが、資本主義や市場主義も十分すぎるほどユートピア的な理論である。前者を標榜する国家が崩壊し、後者が生き残ったのはイデオロギーの差にあったのではなく双方の代表国の国力差にあっただけだ。それをさも双方のイデオロギーの差というように主張するのは現実を見ていない、ただの虚構の論理だ。資本主義や市場主義を標榜して財政が崩壊した国家はニュージーランドを始めとしていくつもあるのだから。
 日本人という人種は特にこうした虚構の論理を好む傾向がある。あるいは現実の論理を軽んじて虚構の論理のみを見る傾向がある。現実を精密に分析するためのツールとして虚構の論理を用いるのは有効な方法である。だが、そこで虚構の論理のみを見てしまうのが日本人という人種であるように思うのだ。実際、我々に必要なのは抽象的な論理ではなく、イラクでは現実に何が起こっているかということをできるだけリアルに感じ取ることである。それが不可能であればなおさら言葉遊びなどにうつつを抜かしている場合ではないだろう。イスラム原理主義がどうこう、民主主義がどうこう論じている暇があるなら、実際にイラクに治安をもたらす具体的政策案の一つでも考え出してみればいい、あるいは何か実際に行動に移してみればいい。そうした必要性を無視して安易な言葉遊びに走り、自己満足に浸るのは滑稽である。
 かくいう筆者とて、空虚なイデオロギーの議論に陥ったことはある。だが上記程度の常識をなくした覚えは無いし、だからこそ実体験をもとに反省を含めてこのようなことを書いている。大切なのは国家でも主義思想でもない。そこに住む人々の生活不安を取り除くことである。それができないのであれば主義思想など何の価値もない。

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