煬帝の功罪


 歴史は時に「暴君」と呼ばれる存在を誕生させる。隋朝の第2代皇帝である煬帝は多くの歴史書において「暴君」と呼ばれ続けてきた。しかしながら、近年は必ずしもそうではなく「煬帝の功績は大きくそれは正当に評価するべきである」という評価も出てきている。このような様々な評価をされる煬帝とは一体何者なのだろうか。煬帝の成した功績あるいは罪過より煬帝像というのを考えてみたい。

 そもそも煬帝は本名を楊広といい、隋の文帝楊堅の次男だった。元々彼は皇太子ではなく、有力な皇族としていずれは国の重鎮となるような存在だった。性格は野心的かつ狡猾であり、また奢侈を好んだ。兄から皇太子の座を奪い取ろうと狙っていた彼は、両親の前ではわざと質素に振る舞い、自らの欠点を完全に隠し通すことに成功していた。また彼は勇猛でもあり、南朝陳に対する征討では総司令官として出陣、優秀な武将たちの活躍や南朝政権の腐敗も手伝って、見事に南朝を下し天下統一を実現させている。この時彼は隋朝政治史におけるメジャーデビューを果たしたのである。
 余談であるが、そもそも「煬帝」とは隋の二代皇帝のあだ名ではなくこの陳朝の皇帝のあだ名であった。しかもこの名を陳の皇帝につけたのは後の隋の煬帝その人であったことは歴史の皮肉である。

 兄を失脚に追い込み、皇太子となった彼は文帝の死に伴い世界帝国の皇帝となった。文帝の死について、煬帝が重病を患っていた文帝に毒を盛ったのではないかと言われたが確たる証拠はない。皇帝となった彼は大運河建設・高句麗遠征をはじめとして国の内外に積極政策を取っていくのである。

 皇帝となった煬帝の頭にあったビジョンは積極政策による国力の増大であった。彼は私利私欲の塊で民衆に重税や苦役を課した暴君とされることも多いが、それは間違いだ。彼は名君ではない。だが単純な暴君では決してなかった(後述するが彼は皇帝としてナポレオンより優秀である)。
 煬帝の「積極政策」は物流の活発化による需要と供給の連動性を高めることが基本理念になっている。既存の水路の整備、南北を結ぶ大運河の建設、東都洛陽の建設、そして洛陽近辺の大貯蔵庫建設、これらはいずれも「物流の活発化」という共通の理念に支えられたものである。煬帝の構想は国内流通のみにとどまらない。西域経営に積極的に乗り出し、この地方で東西交通を脅かしていたチベット系遊牧民の吐谷渾をうって交通路を確保している。隋の勢威は西域に鳴り響き、吐谷渾征伐の帰途にはシルクロードのオアシス国家である高昌国や伊吾国ほか二十七国の使者が煬帝に拝謁したのである。煬帝はまた、家臣を西域に派遣して外国商人の誘致も行っている。西域だけでなく南方経営にも積極的であり現在のベトナム南部までその影響下においた。これらの結果、国内流通の中心の東都洛陽は世界経済の1つの中心となり、未曾有の繁栄を謳歌したのである。

 煬帝の「積極政策」は経済面だけではない。彼はまた「大業律令」の編纂も行っている。この律令により官僚制度にも整備が加えられ、急激に拡大した行政に対応できたのである。大規模な戸籍調査も行っており、この頃の隋帝国は戸数八九〇余万を数えていたらしい。

 ここまで書いていくと煬帝は偉大な名君とも思えてしまう。事実この時期に煬帝が暗殺されていればどう書かれたかわからないほどである。
 煬帝の治世が揺らぎ始めた原因の大部分は三度に渡る高句麗遠征とその間の行政にあった。まず行った時期が悪かった。この遠征は南北を結ぶ大運河の開通を待って行われたのだが、別の見方をすれば大運河に多大な代償を支払った直後に大遠征を行った、ということでもある。大運河は確かに多大な経済的利益をもたらし、政治的にも南北の一体化ということで国の結束を固めたに違いない。だが、同時にそれは民衆を疲弊させていた。大事業を成した後は民衆は休ませ、じっくりと国力を回復させねばならない。そうすれば大運河により隋帝国はさらに強大に、さらに長く続いたであろう事は想像に難くない。だが煬帝はそうはしなかった。
 他にも煬帝は遠征を行っているが、高句麗遠征は一回一回が隋の総力を注ぎ込んだ大事業であった。それを立て続けに三回も行ったのだから、大運河建設が無くとも帝国は揺るいでいただろう。似たようなものに『三国志』で有名な諸葛亮の北伐がある。しかし彼とて常に遠征と内政のバランスを考え、国内整備にも十分な配慮をしていたのである。大運河と三回の遠征は一度にといってもよいほどのタイミングで行われた。このオーバーワークが隋を衰退させ、滅亡させた直接の原因だろう。
 この次点で隋帝国を建て直すとすれば第一回遠征が失敗した段階で素直に国内整備に重点を置くべきだったと思われる。事実、この時期の最大の反乱であり後の大動乱の引き金ともなった<楊玄感の乱>は第二回遠征で火がついた反乱であった。第一回遠征ですでに揺らぎ始めた治世であったが、まだ間に合ったのである。<楊玄感の乱>の後はもはや各地で中央の統制力は失われ、政治のイニシアティブは皇帝側にはなかった。自力での建て直しは極めて困難だっただろう。

 煬帝の欠点とは何だろうか。私は強引な性格からくるバランス感覚の欠如と軽薄さと見る。彼の治世は両極端である。皇子時代のなりふり構わぬ政治闘争劇、皇帝前半期の大拡張と商業の隆盛、皇帝後半期の遠征失敗と無惨な死である。自分が優位であれば強引さは旺盛な覇気となり自らや帝国に多大な利益をもたらす。だが困難にぶつかった場合、彼は単なる無謀な男となってしまうのである。彼の長所であった進んだ経済感覚や文化的素養はこの強引な性格の陰に隠れてしまっているのだろう。
 煬帝の性格を表すのに、日本絡みのエピソードとして有名な小野妹子の話がある。国書に書かれた聖徳太子の挨拶に一時は憤慨した煬帝だが、その後気分を落ち着け対等外交の話に乗っているのである。小野妹子は使者として胸をなで下ろしたことだろう。アヘン戦争の時代、イギリス外交官にあくまで臣下の礼を取らせることにこだわった清朝に比べて、煬帝の度量は広いと思うのだがどうだろうか。
 彼を客観的評価するために似たような業績の人物を示しておくが、まずフランス皇帝ナポレオンを挙げる。彼は煬帝よりも戦上手で、戦史に残るいくつかの名勝負を提供している。だがその国家は軍隊で自立が保たれ、その軍隊を養うためには他国に攻め込まなければならないという、いわば戦争をし続けなければならないという国家を作り上げてしまった。彼はロシア遠征の失敗が元で失脚し、その後復帰するもワーテルローで再び敗れ、その政治生命を絶たれてしまった。ナポレオンはフランス革命期の時勢に乗り民衆の後押しを受けて権力を握った。だが、彼は結局その民衆からも見放され皇帝の座を追われたのだった。彼は<ナポレオン法典>を業績として残しているが、明らかに国内整備よりも軍事と外征に重点をおいていた。彼は本質的に王者や為政者というより将軍だったのだろう。
 ナポレオンの他にも、「玉座の最初の近代人」と呼ばれた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世や東ローマの覇者ユスティニアヌス帝あたりも煬帝と多くの共通点を持っている。特に前者は文化人としての素養に富む一方、最後は教皇派との泥沼の闘争で国力を疲弊させ、非業の死を遂げた点などかなり似ている。ユスティニアヌス帝は伴侶や人材に恵まれていたが、そうでなければどうなっていただろうか。部下に対する酷薄さは煬帝を上回っていると思えるのだが……。
 日本史では誰が似ているのだろうか。案外、差し引きすると秀吉あたりと余り変わらないのではないかという気もする。秀吉は何度か<一夜城>なるペテンで心理的に相手を圧倒したが、煬帝も移動する宮殿を用意して周辺異民族を服属させている。煬帝の方が文化人的あるいは外交的素養に富むが、人たらしの手腕では秀吉が勝っている。双方の晩年の無茶苦茶さ加減を考えると、総合力はあまり違わないのではないか……という気がする。

 というわけで「煬帝の功罪」と題しつつ、彼の業績や分析を行ったのだが、煬帝の理解を深めていただけたであろうか? 再評価とは180度評価を変えることではないと思う。実際、煬帝は自分の帝国を滅ぼしてしまったのだから皇帝としては悪い部類に入るだろう。だが、暴君という評価だけで彼を語ることはできない。この文が歴史ファンの煬帝再評価に繋がっていただければ幸いである。こういう見方ができるからこそ歴史研究は面白い。




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