「理論は起こりうる全ての場合に何をなすべきかを、数学的な正確さを持って教えることはできない、ということは正しい。 しかし、理論は避けるべき誤りを常に指摘していることも確かである。………このような規則は、勇敢な部隊を指揮する有能な将軍の手によって、成功のためのほぼ確実な手段となる」

アントワーヌ=アンリ・ジョミニ
(from「戦史に学ぶ勝利の追及(東洋書林)」)


1,戦術の限界
2,戦術の基本
3-a,代表的な兵科
3-b,装備
3-c,戦闘教義(バトル・ドクトリン)
4,作戦
5,指揮と士気

1,戦術の限界

 まず戦術を語るにおいて、その限界を明らかにしておかねばならない。戦略に裏付けられていない戦術的勝利は戦争の帰趨にはなんら影響を与えないということである。これが例をあげればハンニバルのイタリア侵入である。これは結果として的外れな戦略に基づいた戦場での芸術的勝利は、戦争になんら影響を与えないという見本となってしまった。ハンニバルのケースについては事実上の「戦術の限界」といえる。戦場であれ以上に勝て、というのはもはや無理な話である。つまりは戦略的な裏付けがなければどんな勝利も無駄という事である。勇戦敢闘というのが戦争に勝つ手段足りえないという理由がよくおわかりいただけると思う。
 また、大勝して相手を滅ぼせば最高の結果というわけでもない。普墺戦争でプロイセンの総参謀長モルトケはオーストリアを完膚なきまでに叩き潰すつもりだった。これに対しビスマルクは強引にオーストリアとの講和を結び、モルトケは大いに不満であったようだ。この講和はある程度オーストリアの立場を考慮したような条約であり、モルトケに任せておけばもっと圧倒的有利な条件で講和が結べただろう。ではなぜビスマルクはオーストリアを救うような真似をしたのだろうか? これは周辺諸国とのバランスの問題であった。プロイセンが周辺から一歩抜け出ればそれはつまり孤立を招き、結果的なマイナスとなってしまうからであった。この後ビスマルクは周辺との外交に辣腕を発揮し、宿敵フランスを外交的に孤立させる事に成功している。勝ちすぎないことが勝つことにつながるといういい見本である。これはつまり、「戦略に裏付けられた少しの勝利」である。「戦略に裏付けられていない歴史的大勝」より余程効果的な勝利なのである。

 もちろん、戦場で絶対負けてしまうようなレベルでは戦略など建てられはしない。だが、戦略がなければ10倍の敵を打ち負かそうが意味のないことなのである。戦術の限界を知る者のみが戦術の効用を知る。これを忘れ、戦術的勝利で戦争に勝とうとすれば待っているのは屈辱的な敗戦であろう。

2,戦術の基本

 そもそも、戦術の基本とはなんであろうか?
 これはやはり「実(強)を持って虚(弱)を撃つ」という言葉に集約されるであろう。これは洋の東西を問わず戦いにおける1つの原則であるように思われる。
 これをお読みの方の中には「強いものをもって強いものに対抗するのが常道ではないのか?」とおっしゃられる方もいらっしゃるかもしれない。
 しかし、それはいわゆる「消耗戦」というやつで、両者が政略・戦略的に作り出した条件のままで決着を付けるやりかたである。貴方が1万、相手が1万1千の兵力を集めたとすれば、同じ兵質ならば必ず兵力の多い相手の方が勝ってしまうやり方なのだ。
 政略・戦略的に優位に立っているのならばそれもいいだろう。現にハンニバルに攻められたローマは、戦術的な不利を覆すためにあえて消耗戦の道を選んだ。
 戦略的なことも絡めて話をさせていただくならば、「虚を撃つ」より「実を持つ」という事を念頭に置いた方がよい。もし相手が慎重で注意深い将であった場合「虚」というのはなかなかに見いだしにくいものであるからだ。だが、そのような場合でも自らの長所や利点(つまり「実」)を持って対抗すればいいのである。相手の「虚」を突こうと、こちらがさらなる致命的な「虚」をさらけ出しては何の意味もないのである。何を馬鹿なことをと思うかもしれないが、喧嘩の必勝法は相手より強くなることである。弱いまま策を弄するより相手と正面から殴りあっても勝てるくらい強くなった方がより確実に勝てるに決まっている。

 「実(強)を持って虚(弱)を撃つ」の具体例としては、
側面・後背攻撃、補給部隊等の非武装部隊への攻撃、兵科の相性的に弱い部隊への攻撃などがある。兵科の相性とは重装歩兵に弓兵をぶつけたり、軽装歩兵に重騎兵を叩きつけたりすることである。
 いずれも戦史では常道とされる戦法ばかりである。古今の名将たちはこれらの積み重ねや応用・併用等で勝利をあげてきた。無論例外も存在するが、それはあくまで奇策、これらを土台としているに過ぎない。これらが常道であるからこそ、常識であるからこそ、あえてその裏をかいているわけである。

 また兵質・兵科が全く互角でも、相手を「虚の状態に陥れる」という方法も存在する。今日よく言われる「虚をつく」はむしろこちらの意味で使われているようだ。
 つまりは、相手の不意をついたり、相手を騙して罠に陥れたりということである。この方法は多くは相手の心理の隙をつくものが多い。無論、情報をできる限り隠蔽し、密林のゲリラのごとく戦うのもまた不意をつくものだが、多くの場合これらは相手との心理的駆け引きによるところが大きいのだ。
 プロのギャンブラーは素人から金を巻き上げる時、わざと少量の勝ちを重ねさせ、相手を勝負に引きずり込んでから大勝するのを常套手段とする。同じような手法が実際の戦争で使われたケースはいくらでもある。

 カルタゴ対ローマの間で行われた第2次ポエニ戦役の会戦のなかで最も有名なのが、紀元前216年にイタリア南部で行われたカンナエの会戦である。この会戦でカルタゴの将軍ハンニバルは5万の軍勢を持って8万を超えるローマ軍に完全勝利を収めたのであったが、ハンニバルがこの戦いで勝てたのはローマ軍の驕りに因るところも大きかった。
 ハンニバルが両翼に騎兵部隊を配置していたのを知っていたのにも関わらず、ローマ軍が中央を厚くし両翼を軽視したというのは、ハンニバルが両翼を重視したために中央を薄くしているということを計算にいれてのことであったろう。事実、ローマ軍の隊形はあきらかに中央突破を狙った陣形であり、戦闘の途中まではそれはほぼ成功していた。
 ハンニバルが狙ったのは、ローマ軍に中央を狙わせることで両翼を軽視させ、 最終的には包囲殲滅を狙った狡猾な「誘い込み」であったと見ていい。結果、それは完全に成功し、死傷者はローマ軍5万(ほぼ戦死)ハンニバル軍5千(8千とも)という圧倒的勝利を可能なものとした。

 カンナエの会戦はよく戦術の理想形と言われるが、それは兵科の相性や心理戦、そして戦力の最大限の有効活用と、様々な手法を見事に併用し勝利を収め た会戦だからである。残念ながら戦略的には効果が少なかったものの、戦術としてこれの上をいくものは戦史上には存在しないといっても過言ではない。(互角ならば結構あるのだろうが。)

3-a,代表的な兵科

 兵科と一口に言っても様々な兵科が存在する。ただ、普遍的なものとしてい3つの代表的兵科が存在する。まず、防御力・組織力に優れた「歩兵」である。現代においては一般的な歩兵の他、第二次大戦後の戦車がこれにあたる。次に機動力に優れた「騎兵」がある。第二次大戦中の戦車や現代では戦闘機・攻撃機といったところか。そして最後が攻撃力のみに偏重した『弓兵』である。現代においては砲兵部隊やトマホークなどの巡航ミサイル、スカッド等の長距離弾道ミサイルがこれにあたる。
 無論これ以外にも、騎兵と弓兵の特徴をあわせ持った(つまりは高機動・高火力)「弓騎兵」や、弓兵と歩兵を合わせたような(攻撃力・防御力の双方に優れる)「銃剣歩兵」が存在する。生活文化・装備によって、また運用法によって様々な兵科が存在するが、おおかたは上記の3種類のどれか、もしくはいくつかの複合・発展系として表すことができる。同じ兵科でも時代・運用によってはその性格が変わることもあり、第二次大戦中は戦車が騎兵、戦闘機が弓兵の役割を果たしていたが、現代の戦争においては戦車は重装歩兵、戦闘機が騎兵と言った方がよいような役割を果たしている。

 一般的には、歩兵を倒すためには騎兵と弓兵を使い、騎兵を倒すためには歩兵と弓兵を併用するのが上策である。弓兵はやや特殊で、接近されなければどの兵科よりも強いが、接近されると途端に最弱の兵科と化す。
 上で「現代においては〜」という言葉を使っているが、全くの新兵科ができたとしてもそれはどのような兵科の特性を兼ね備えているかを考えれば対抗策、あるいは対抗策を考える上での方向性のようなものは見えてくるだろう。逆に闇雲に一から対抗策を考えていても有効な策は出てこないのではあるまいか。

 ちなみに、弓兵が騎兵(特に重騎兵)を狙う場合、騎馬を狙う事が多いようだ。百年戦争のクレーシーの戦いでは、イギリスのロングボウ兵がフランス騎士を打ち破り、ロングボウは騎士の鋼の甲冑も貫いた!と言われたが、実際は馬が先にやられ身動きができなくなった騎士たちがじっくり狩られていったという方が正しいようだ。

 一般に騎兵隊は高コストの部隊である。まず良馬を必要数揃える事が要求され、それを維持しなくてはならない。また、騎乗しながら武器を使うのは高度な技術が要求されるので、騎兵は幼少から育成されなくてはならない。両手が必要となる『騎射』などは特にそうである。しかし、生活に余裕のある身分以外で、幼少から騎馬訓練をさせるのは至難の業である。西欧において騎士が特権階級のものであったのはあながち不自然な事ではないのだ。一方、イスラム系の国では、この時間的コストを戦闘用の奴隷を使うことで解決した。モンゴル軍を破ったことで名高い「マムルーク」である。彼らは戦闘のためだけに購入され、厳しい訓練を施された。その結果、最強と謳われたモンゴル騎兵に劣らない程の戦闘能力を有するに到ったのである。
 この点騎馬民族に弓騎兵が多かったのは、彼らの生活様式がそのまま弓騎兵の育成となっていたからであろう。この点に着目し、ビザンツ帝国ではフン族やトルコ系の弓騎兵を傭兵として雇っていた。

 戦術を組み立てる場合、何よりもその兵科の長所を生かせるような運用を心がけて戦術を組み立てなければいけない。
 歩兵は編成によって比較的融通が利くものの、騎兵に横陣での正面突破や攻城戦を命じたり、弓兵に機動戦や一撃離脱をやらせるのは、まあ勝てないとは言わないまでもあまり利口な使い方ではない、少なくとも兵科の特性を活かしきった運用法ではないということを記憶しておいていただきたい。
 騎兵の最大の長所は機動力である。衝撃力だけなら重装歩兵による密集陣でも備えているが、機動力は騎兵だけが持つ特性である。ならば、騎兵を使う場合はやはり機動力の活用を考えなくてはいけない。「迂回機動」や「一撃離脱」というのは機動力を活かした典型的な運用法である。他にも「偽装退却」や「騎行(戦略と言うべきか)」という運用法もある。
 一方、弓兵の長所は離れた場所から攻撃する射戦にある。このため、多少の機動力の低下を覚悟で野戦陣地が組まれることが多い。騎兵ならば結局敵と槍を交えなくてはいけないが、弓兵ならば壁や柵に隠れて遠くから敵を射殺せばよいからだ。一方、別の使い方としては散兵戦に使われる場合がある。これも、射程を活かした運用法である。本来なら、バラバラの隊形で一糸乱れぬ敵の隊列に対抗するなど無理な話である。だが、射戦ではむしろ散開している方が有利に働くのだ。これを利用し、味方の突撃前に散兵として敵前に展開し敵陣を攪乱、射戦への対応として散開しかけた敵軍にこちらが密集して突撃するというもので、射戦と突撃戦のルールが違うことを活かした一種の分業制である。

3-b,装備

 軍が編成される上で、装備は極めて重要な要素である。装備の優劣は時折勝負の分かれ目ともなる。装備で優劣が出る場合、「装備の種類による場合」と「装備の質による場合」の2種類がある。

 装備の種類は兵科とも関係してくる問題だが、紀元544年のトティラ率いる東ゴート軍対ナルセス率いる東ローマ軍がタギネーで戦った戦例などはこれにあたるだろう。鐙は持っていなかったものの、重装甲(馬甲すら付けていたとも)と長槍で接近戦のみを想定したトティラの軍は弓や投槍、長槍など様々な装備を持ち多様な攻撃が可能なナルセスの軍に敗れ去った。装備の種類は軍の戦術的な柔軟性や、行動力を左右するのである。「アナバシス」で描かれているギリシャ傭兵団が様々な兵科の使い方を敵であるペルシャ軍から学び取っていく様はいかに戦術的柔軟性が重要なものかを表している。最初はおなじみの重装歩兵だけであったギリシャ傭兵軍が、軽装備の投石兵や少数ながらも騎兵隊を備えていく様は当時のギリシャの軍隊に欠けている物を如実に描いている。
 装備の質は直接の結果には結びつき難い。だが一種戦術的で不安定な種類の差より地味ではあるが確実な効果がある。一例を挙げれば紀元五三〇年のササン朝ペルシャ軍対ベリサリウス率いる東ローマ軍のダラス要塞攻防戦などがある。この戦いでベリサリウスは要塞部隊の火力と騎兵隊の機動力を組み合わせる事でペルシャ軍に多大な損害を強いた。東ローマ軍にもペルシャ軍にも弓騎兵は存在したのだが、問題はその装備の質であった。ペルシャ軍もそこそこに強力な合成弓を持っていたのだが、中東の暑さなどから重装甲の騎兵ではなかった。一方の東ローマ軍は重装甲に加え、装備している弓はフン族譲りの強力な合成弓であった。もしフン族が蒙古高原の民族であるとするならばオスマン・トルコ時代に「マスケット銃より強力」といわれた強弓を装備していたことになる。実際、この戦いでペルシャ軍の矢は東ローマの装甲に歯が立たず、東ローマ軍の矢はペルシャの装甲を簡単に射抜いてしまうという有様であった。

 装備と言う意味では弩砲や投石機などの大型兵器の存在も忘れてはならないだろう。攻城戦で使用される超大型兵器についてはまた別の所で言及するとして、野戦で使用される大型兵器のみをとっても多彩な種類がある。まず大型兵器を野戦で使ったのはアレキサンダー大王のマケドニア軍である。彼らが使ったのは「ねじれ弩砲」と呼ばれる弩砲で、動物の健や馬の毛、人間の髪の毛などを鉄製のレバーでより合わせている強力なもので、大型の物は重さ50ポンド(20kg以上)の石をかなりの精度で300ヤード(270m以上)先まで飛ばせたという。特に密集した重装歩兵隊などに対しては弩砲は極めて有効に働いた。弩砲を表す「カタパルト(投石機ではなく弩砲を表す言葉である)」という言葉があるが、これは「楯を貫くもの」という意味である。また、タキトゥスの「同時代史」には野砲として「オナゲル(アームのついたいわゆる投石機)」が使われている描写がある。ローマの各部隊はこうした大型兵器の使い方に習熟しており、進んだ編成・戦術などとともに周辺異民族を圧倒する原動力となっていた。中国では「床子弩」という大型の弩が使用された。諸葛亮の「元戎」は一回の射撃で10本前後の矢を発射する兵器であり、彼はあえて敵に攻めさせることでこのような兵器の力を活かそうとした。
 装備の差がまさしく戦場の帰趨を左右するまでに到ったのは火薬兵器の登場移行であろう。特に軽量のピストルの登場は主流となる戦術そのものを大きく変えてしまった。初期の銃はそれほど強力ではなかったが、問題は銃の使用法の簡便さにあった。弓というのはいずれにせよ使用には熟練を要する。西洋の石弓や中国の弩は機構が複雑である。銃は単純でしかも操作が簡単であったので勇敢なだけで未熟の下級の兵たちを立派な戦力に変えてしまうことができたのである。特に射撃武器というのは戦争においては正確さよりも大量に撃つということが求められる。結果としてそれまでの様式化され儀礼と化していた西欧の戦場は大きな変化を求められた。中国で火薬兵器登場以前と以後であまり大きな変化が見られなかったのはルール無視の騎馬民族と常に交戦状態にあったからであろう。ただそれでも火薬兵器登場以後は農耕国家の巻き返しが見られ、騎馬民族は相対的に弱体化していく傾向にあった。女真族はそれでも火薬兵器に適応したが、モンゴル・中央アジアの民族の軍隊は徐々にその優位性を失っていったのである。

3-c,戦闘教義(バトル・ドクトリン)

 「戦闘教義」とは、戦術において使用される「型・技」のことである。サッカーの監督に例えれば、「ゾーンプレス+フラット3」や「カテナチオ」はまさしく「戦闘教義」である。監督が途中で(予定外で)フォーメーションを変えたり選手を交代させるなどして、流れを変えたりするのが「戦術上の駆け引き」である。ただし、最初から交代の選手・時間を決めていたり、リードすれば守りに入るといった方針が決まっていた場合、これは「戦闘教義」といえる。
 優秀な軍隊と言うのはこういう得意な「型・技」を必ず持っているものである。アレキサンダー大王の軍隊の「鎚と金床」はこの戦闘教義にあたる。遊牧民は退却するふりをして、追撃しようと陣形を崩した敵軍を狙って再度突撃するという戦法を多用したがこれも戦闘教義である。百年戦争のイングランド軍は「長弓防御陣」という戦闘教義だけでフランス軍を幾度か破っている。優秀な将軍はそういう得意な戦闘教義を絶妙のタイミング・間合いで仕掛ける事ができる。真の名将とは順当に勝つものだ、とは「孫子」であるが、毎回奇抜な策を駆使しているのは真の名将ではないのである。名将の勝ち方では、一見すると敵は同じ戦術でやられているように見えるが、実際は同じ「戦闘教義」を素晴らしい「戦術上の駆け引き」で仕掛けられているだけなのである。
 この「戦闘教義」は戦争が始まってから開発するものではない。平時において十分に研究され、実用的な形で訓練されなければならない。そうやって準備された良質の軍隊を非常時に名将が使いこなすのが理想と言える。無論、名将本人がこれを研究開発することもあるだろうが、往々にして平時の組織は傑出しすぎた天才を嫌うものである。非常時に彗星のごとく現われる(抜擢されるor這い上がってくる)のが名将であるケースが多い。
 「戦闘教義」だけで戦場の勝敗が決まることはあまりないことである。だが、彼我の軍事科学に大きな隔たりがある場合、そういうことは起こり得る。場合によっては彼我のいずれかは「戦闘教義」を持っていない場合がある。このような場合は結果はともかく優位性ははっきりしている。これについては、クセノフォン著「ソクラテスの思い出」よりソクラテスに語っていただこうと思う。

「戦術を習うのは結構だ。戦闘隊形に整列した軍隊は、戦闘隊形についていない軍隊よりずっとましだよ」(from「戦争の起源(河出書房新社)」)

 実際これは、戦争に必要な物はこれだけではないという皮肉なのだが事実には違いない。優秀な「戦闘教義」を開発しておくことは、軍隊の地力となる。それだけでは勝てないにしろ極めて重要な要素なのである。

4,作戦

 Vで挙げたことがポーカーで言えば「手を作っていく」段階であるとすれば、こちらはいよいよ作り上げた手で「相手から金を巻き上げる」段階であるといえる。作り上げた手でどれだけ金を巻き上げられるか、というのがこの段階である。
 「作戦」という言葉からも、やはり本質的には「デザイン」や「創造」といったものが戦術には存在する。作戦参謀たちは常にこの戦場芸術を作り出すために頭痛と時には不眠を友としているわけである。

 さてこの「作戦」であるが、つまりは敵の動きを想定し、あるいは敵を動かし、こちらの「戦闘教義」に引きずり込む手順を戦場で創造することである。想定が間違っていたり、敵を動かせなかった場合はその都度修正を加え、最終的な勝利を確定させるのである。
 この段階で要求されるのはもはや兵力ではなく将帥と補佐役たちの能力である。特に要求される能力は、作戦を創造するという面においては思考力と想像力が要求され、作戦を成功させるという面においては洞察力と行動力が要求される。1人でこれを兼ね備えている必要はない。ただしそのような場合でもこれらの能力は必要不可欠であること、そして自分にそれが無いことなどを自覚しておく必要はある。

 大方の場合、作戦の大綱はこうである。まず敵を機動などをもって攪乱し、攪乱した敵を自軍主力を持って打撃する。そして打撃を加えられて退き始めた敵に激しい追撃を加えるのである。毛沢東が使った戦術に「敵が来れば退き、敵が止まれば混乱させ、混乱させれば猛追撃を加える」というものがあったが、さすがは「孫子」の熟読者である。まずシンプルであり、実践的である点や、しっかりとした手順が設定されている点等、このような戦術大綱は一種の完成形であろう。ひたすら包囲という形を目指すことのみにこだわり、士官学校の試験では最終的に包囲に持っていけば大方良い点数がもらえたという大日本帝国の戦術大綱などは埋め立て地にでも埋めてしまえばよいのである。インパール作戦の惨敗は軍部の無能の象徴である。包囲というあくまで理想的結果に過ぎないもののみを重視し、そこまでの道程の作り込みを軽視すること(最終段階が包囲の状態であればよい)自体間違っているのだが……それはすでに戦術大綱ではないからだ。現在でも理想的結果をそのまま方針にする日本人気質は変わっていないようにも見える。そこまでの実践的手法は現場が一々考えなくてはいけないらしい。
 話を戻すが、この大綱に沿うよう、あるいは同等以上の効果を挙げられるような大綱を実行するためにまた様々な策が用意されるわけである。例えば攪乱する段階でも散兵を使ったり、騎兵に迂回機動させたりと様々な手法が存在する。散兵を使おうと思ったら敵軍にも優れた散兵がいるので、先にこれを騎兵で蹴散らして……、などと言うことも考えなくてはいけない。自軍主力は足が遅いので、重騎兵で敵軍を拘束しておかなければ、ということもあるだろうし、斜線陣のような戦術陣形を使うことで主力の打撃段階そのものに柔軟性を持たせるという手法も存在する。

 作戦には理想というものが存在しない。要はこちらの「戦闘教義」を最大限活かせる状況を作り出せればそれでよいのだ。手法も人物の性格によって異なる。敵の攻撃を受け流してから、という受動的な人物もいれば、アレキサンダー大王のごとく味方も敵も全て自分が動かすと言わんばかりの人物も存在する。型にはまった作戦は忌むべきものであるし、敵にも見破られてしまう。この心理戦の段階はまぎれもなく戦争芸術であり、間違っても量販店の商品をそのまま使用するのは避けるべきであろう。

5,指揮と士気

 戦術と呼ばれる技術の内、実に半分近くを占めるのは集団を指揮する術である。戦略的な問題である兵站と情報が整っているならば、現場での作戦と指揮さえしっかりしていれば戦場で不覚を取ることはないだろう。集団を指揮するというのは平時ですら容易なことではないが、戦時ではさらに困難であるといえるはずである。

 指揮官たるもの、兵士たちに敬意を払われなくてはならない。同時に、親しみを感じさせるようにしなければならない。兵法書「呉子」で有名な呉起は、常に兵士と同じ生活を送ることで親しみを感じさせる一方、負傷の手当なども自ら率先して行うことで敬意を勝ち取っていた。ハンニバルもまた、兵士たちと同じものを食べ同じ寝床で寝ることで外国人傭兵の寄せ集めだったカルタゴ軍をまとめ上げていた。スキピオは部下の顔と名前を全て覚えていたといわれ、同じようにナポレオンは閲兵の際にあらかじめ古参兵の履歴を調べ上げては「君、○○の戦場で一緒だったね」と声をかけ、兵士たちを感動させていたといわれている。これらは彼らが善人であったことを示すものではない。しかし、彼らが人心の機微に通じておりいかにすれば兵士の心を掴めるか、ということに腐心したことを示している。念入りに練られた作戦を実行するにしても、兵士が指揮官を信頼していないのでは意味がない。指揮官は軍隊が戦場に到着する前から兵士の心を掴んでいなくてはならないのである。

 士気についてもただ意気盛んなだけでは望ましいとはいえない。相手を呑んでかかる一方で、適度な緊張感と規律を遵守する精神が存在して初めて士気が高いといえるだろう。油断している状態を士気が高いと誤解したり、相手を恐れていることを緊張感があると誤解した例は歴史上いくらでもある。指揮官たる者、兵士たちがどのような状態にあるのか、しっかりと把握しておかねばならない。また指揮官は自分自身の士気にも注意を払っておく必要がある。今自分は強気になっているのか弱気になっているのか、そうした注意を忘れた指揮官は大抵の場合破滅する。

 剛毅なだけでは名将とはいえない。強引なだけでは大事を達成することはできない。勇敢さや巧みな作戦立案などは部下や補佐役に任せておけばいいのである。指揮官にとって欠かすことができないのは感受性や想像力といった、部下の兵士の心理状態を鋭敏につかみ取り、それを巧みに操作する能力なのである。



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