今回は蜀の地についてであるけれど、これは中国世界の蜀ではなく、アジア世界の蜀としての話題である。蜀は中国世界の中では四川盆地という別天地であると同時に「巴蜀の険」に囲まれた辺境地帯に過ぎなかった。一方、アジア世界では蜀は絹の一大生産地であり、インドや西方に伝わった養蚕技術の発祥の地でもあった。「蜀」という漢字はそもそも養蚕の蚕を形で表したものであり、漢字の上部が頭を表し下部が蚕の胴体を表している。蜀は「養蚕の地」なのである。蜀が中国世界に飲み込まれたのは秦帝国の統一事業の時であり、この時に四川盆地に秦の城がいくつか建てられた。中国史にどっぷり浸かってしまうとここで「ああ、四川盆地はそれまで文明化されていなかったのか」という認識を抱いてしまう。しかし、実際はそうではなかっただろう。確かに秦が蜀を開発したのかもしれない。だが、それは蜀の地がようやく文明化されたということではなく、秦が蜀を侵略しただけだろうろ思う。養蚕の技術が生まれたのはかなり古く、紀元前三〇〇〇年頃、すでに蜀の地には独特の文化を備えた強力な国家が存在していた。四川省の三星堆遺跡から発掘された大量の遺物を見る限り、古代から蜀の王は巨大な財力を持っていただろう。そしてその財源は蜀の絹とそれを輸出していた絹の道「西南シルクロード」の存在にあると思う。今回は蜀の地と、そこから延びる南への交易路について調べてみた。
古代からの中国世界の交易路は主に西域貿易と南海貿易の2つが存在した。「西南シルクロード」は南海貿易と同じ東南アジア・インドと中国を結びつける交易路である。この交易路は現在の雲南省を横断し、現在のミャンマー北部へと通じている。地図を見てもらえばおわかりかと思うが、現在でもこのルート上に都市が点在していることがその存在を示している。あのような山岳地帯に大理のような都市があるということは、「西南シルクロード」がけっして一部の冒険的商人が通るだけの例外なルートなどではなかったということを示すものだからだ。現在でもこの交易路上に住む人々の中にはこの交易路が機能していた頃の商人が昔を懐かしんでいるらしい。また、一説によると「西南シルクロード」は西北のシルクロードより二〇〇年ほど早く開通していたとも言われており、交易路の整備も遅くとも前漢の武帝の時代には行われていた。「西南シルクロード」は史書でもその存在を確認することができるが、前漢の武帝の頃、月氏の国に派遣された張騫はインドで蜀の物品を見て驚いた。彼は帰国後、蜀からインドへ至るルートがあることを武帝に報告し、それを聞いた武帝は家臣を派遣して交易路の修築を行わせたとある。この記述から、武帝以前からこのルートは四川土着の交易路として機能していたこと、武帝以後このルートは中国の中原においても認識されるようになったことなどがわかる。当時インドはローマ帝国と盛んに交易を行っていたのはギリシャ・ローマの資料や遺物などからもよく知られており、蜀→インド→ローマという具合に「西南シルクロード」は東西交流の大動脈を形成していたのだ。
三国志の時代の蜀の地でこの交易路が活用されていなかったとは考えがたく、当然ながら蜀に興った2つの劉氏政権は「西南シルクロード」をフルに活用していただろう。三国志時代、このルートが機能していたことを示すものに諸葛亮の北伐がある。彼は北伐の財源として<錦>をしばしば挙げており、部下への褒美も絹織物によって行っているのである。また彼の南征も再評価すべきで、まず再評価すべき点はこの南征が単なる領土拡張の遠征ではなく交易路の確保であったということだろう。それまで友好関係にあった交易路上の異民族国家が反旗を翻したのでこれを討伐した、というのが南征であったと考えるべきではないだろうか。これにより蜀の特産品であった絹織物を輸出するルートが確保でき、それは劉氏の蜀漢にとって極めて重要な財源だったと考えることができる。またこれにより「この地の蛮族は未開であって討伐は容易だった」という認識は改められるべきだ。この地は古くから交易によって栄えており、また現在もこの地に居住しているイ族などが剽悍な遊牧民であるという点から考えても南征の敵対勢力は単なる未開人ではなかったといえる。インドと中国という世界の2大先進文明を繋ぐ勢力が弱小であったとは考え難く、南蛮勢力の国家的・文化的な再評価もすべきだと思う。
そもそも我々が「南蛮」を野蛮視してしまうのは歴代の漢民族史家の中華思想にその原因がある。彼らは「漢民族的でないもの」全てを「野蛮」と見なす。これは上下水道を完備し、高度な政治体制を敷いていたローマ帝国もそうであった。漢民族史家にしてみれば「世界の中心」から遠く離れた辺境の蛮国に過ぎず、だからこそローマ皇帝は「大秦皇帝」ではなく「大秦国王」と呼ばれ臣民扱いされたのである。また、もう1つの原因は我々が当時の日本の光景を想像し、中国の周辺地域も似たようなものだろうという誤った認識を抱いてしまう点にある。荒海に隔離され、諸文明の交易路から外れた場所にあった日本の文明は、インドと中国を結ぶ交易路上にあった「南蛮」よりも大きく遅れていたと考えるのがむしろ自然だろうと思う。だが「西南シルクロード」の評価はそれらの認識を大きく覆すものだろう。このことに限らず、三国志はアジアという大きな舞台の中の地方史としてとらえられるべきだろうと思う。まず蜀は絹の国であり、それを他国に輸出することで大きな富を築いた商業国家であったこと、蜀には殷や周の時代から独自の文化を持った地域であったこと、そして当時インドや西欧では中国に匹敵する巨大で豊かな文明が存在したこと、それらを「西南シルクロード」は我々に示してくれている。新たな視点は三国志に新鮮な楽しみを与えてくれると思う。何も我々日本人が中華思想に毒されながら三国志を楽しむ理由はないと思うのだが。