注:以前に大学で提出したレポートの写しです。

参考資料
「カブールとその時代(白水社、著:ロザリオ・ロメーオ/訳:柴野均)」
「イタリア民族革命の使徒マッツィーニ(清水新書、森田鉄郎)」
「世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩(中央公論新社)」


序、

 今の私たちが知るイタリアという国家は、それほど古い国家ではありません。イタリアは19世紀の半ばまでは多くの公国や都市国家、ローマ教皇庁の勢力が点在していた「地域」に過ぎませんでした。
 イタリアを現在のような統一国家に仕立てあげたのは、当時のイタリアを取り巻く情勢に心を痛めたリソルジメント(再興・復興運動の意味)の運動家たちでした。しかし、イタリアという地域はそれまでに何度も統一が試みられながら失敗が繰り返されてきた地域でした。事実、19世紀の統一への動きも1度は諸外国の力により挫折しています。
 困難な統一への道が切り開かれたのは、カブールという1人の政治家の力によるところが大きいと思います。イタリアを統一したのはサヴォイア朝サルデーニャ王国(ピエモンテ王国)という、当時のイタリア内の一国家でしたが、カブールはその首相でした。彼がイタリアを統一国家として生まれ変わらせるために何をしたのか、当時、彼とイタリアを取り巻いていた状況とともに詳しく調べていきたいと思います。


一、カブールまで

 a)ナポレオンの遺産

 当時のイタリアの情勢を作り出したのは1814年のウィーン会議でした。

 この会議の黒幕ともいえるオーストリア宰相メッテルニヒや、会議に参加した列強の思惑により、イタリアは分裂した状態のまま放置されました。彼らはヨーロッパに新たな大国を誕生させ、力の均衡を崩す事を恐れていたと考えられます。またメッテルニヒはフランス革命を始めとするナショナリズムの持つ危険性を恐れ、「反動的」ともいわれる旧秩序への回帰を目指しました。

 このウィーン会議はナポレオンにより崩壊したヨーロッパの旧秩序の復活を意図したものでした。
実はイタリアは、ナポレオン体制下で「一つの力のもとに統治される」という意味で統一されていたと言えるかもしれません。
 ナポレオンは彼の登場以前のイタリアでは最大の強国であったヴェネツィア共和国を崩壊させ、ローマ教皇の権威にも膝を屈しませんでした。また、ナポレオンはイタリアに革命思想を持ちこみ、国民軍という目に見える形を示して、イタリアを強引ではありますが「啓蒙した」といえるでしょう。19世紀のイタリア統一の運動家たちは多かれ少なかれフランス革命に強い影響を受けており、ナポレオンという革命思想の「伝道師」なくしては、後のイタリアが統一されることはなかったかもしれません。
 ナポレオンがイタリアで行なった諸改革はウィーン会議により大半が一掃され、イタリアにはナポレオンの残した革命思想とメッテルニヒにより復活した旧秩序が残りました。中には例外的に旧秩序とナポレオン改革が融合した地域も存在しましたが、大半の地域は腐敗した貴族的社会や外国の支配化にあるという情勢になっていました。

 b)1848年革命と第一次解放戦争の敗北

 イタリアを諸外国の影響下から逃れさせるためには、イタリアを強国にする必要があり、そのためにはイタリアが統一される必要があり、そのためには国民となる民衆層に「イタリア」という意識を形成する必要がありました。そのような意識が高まりつつあったイタリアで、マッツィーニという人物が注目を集め始めます。1834年に「青年イタリア」という革命組織を作り上げ、啓蒙的な著作の発表など精力的な活動を続けた人物です。彼はイタリアが独立するためには全民衆の力を背景にして戦う事が必要だと唱え、それまでの秘密結社的な組織とは異なる開放的で単純明快な革命組織を作ろうと考えました。
 同時期、イタリアではいたずらに革命的蜂起を繰り返すより、他のヨーロッパ諸国に比べて遅れた産業の振興や科学知識の普及、教育の充実などを図り、着実にイタリアの復興を目指すべきだという思想が盛んになってきます。科学者会議が各地で連年開催され、農業協会なども組織され社会の改良計画が話し合われました。これらの活動はばらばらだったイタリアを「縫い合わせ」て、民間レベルでの一体感を作り出すことに貢献しました。それだけではなく、これらの改良計画を実現するためには現在の旧秩序の虐政を打破しなくてはならないという壁につきあたってしまい、革命思想家たちだけではなく、これら社会改良派も政治的問題へ積極的に参加するようになっていきます。

 1848年はフランスやドイツなどでも革命が起こった年ですが、イタリアでもミラノでの駐留オーストリア軍と市民の衝突を発端とした大規模な騒乱が起こりました。同年のウィーン革命とメッテルニヒの失脚の報を受けてミラノとヴェネツィアで市民・農民が決起し、反乱はロンバルディア=ヴェネト王国全土、イタリア全土へと広がっていきました。しかし、他のヨーロッパ諸国の支持も得られず、サルデーニャ国王カルロ=アルベルトの優柔不断さもあり、結局反乱は一週間で鎮圧されてしまい、イタリアにはより厳しくなった旧秩序体制と弾圧が残りました。 


二、カブール伯爵

 解放戦争の敗北と、厳しい反動的な弾圧がイタリアに重く圧し掛かっていた1850年、サルデーニャ王国の農相(後に財相と兼任)としてカブールが政治の舞台に登場します。彼はピエモンテ地方の古い貴族の生まれで、サルデーニャ王国を基盤とした立憲君主制下でのイタリア統一国家を構想していました。 
 最初、彼は軍人としての道を歩み始めますが、革命的な危険思想をもったとして士官学校を放校されてしまい、故郷で隠棲に近い生活を送っていました。その後、フランスやベルギー、イギリスなどの国々を訪れ、その近代的な社会制度や革命思想、人脈など様々なものを得ました。

 当時のサルデーニャ王国は諸外国の影響下に置かれていたわけでもな区、軍事力こそイタリア国内で抜けた存在でしたが、国内制度自体は貴族的な要素を色濃く残した旧態依然の国家でした。カブールはイギリスやフランスの社会制度を参考にしながら財政改革を進めていき、鉄道や港湾整備など社会資本の整備も積極的に行ないました。
 これらの改革は着実に成果を上げ「ヨーロッパにはサルデーニャ王国の財務相以上に見事に財政経済問題を扱う事のできる人物はいない」とまで言われるようになります。カブールの政治的指導力は内外に広く認められ、思想的に対立する人々からも「革新運動の指導者として彼よりふさわしい人物はいないだろう」という声があがり始めてきます。

 カブールは己の手腕を周囲に認めさせることでイタリアの政治的主役となり、統一運動を己の責務としました。ビスマルクと比較される外交手腕が主に評価されるカブールですが、彼の才能はおそらくこのような財政、社会改革にあり、それだけに今日において彼の早世は惜しまれるのでしょう。
 

三、戦略家カブール

 a)カブール構想(二大運動家からの激しい批判・統一運動を外交カードに使う)

 カブールは1852年、サルデーニャ王国の首相に就任し、イタリア独立・統一運動の指導的な役割を担うようになります。彼が抱いていたであろう、基本戦略構想を整理してみたいと思います。

  ○イタリア意識の維持と愛国心の鼓舞(ローマ教皇との対立)
  ○独立運動を伊墺の問題に留めず、列強間の対立問題へと発展させる(地中海の十字路という地政学的アドバンテージ)
  ○フランスとの提携(ナポレオン三世の存在)
  ○最終的には軍事的な解決を目指す(第一次解放戦の敗北、イタリアの伝統的な戦争の弱さ、ガリバルディの義勇軍)
  ○国民の自発的な意識を喧伝することで、列強への政治的正当性のアピール(統一国家誕生を望まない列強の思惑)

 カブールが外交家として初めて注目を集めたのは、1854年のクリミア戦争(イギリス・フランスがトルコを助けてロシアと戦った)でした。サルデーニャ王国はフランスの同盟軍としてクリミア戦争に出兵し、英仏両国に「恩を売る」ことに成功しました。戦後のパリ講和会議では英仏の支持に後押しされ、オーストリアやイタリアの旧秩序勢力の虐政の国際的に告発することに成功し、「イタリアの近代化」という問題はヨーロッパ列強間の問題ともなっていきました。
 ただし、このような政策が、民族主義者たちからは「イタリア民族復興の大命題を、外交問題にすりかえた」と、激しい批判を受けてしまったことも事実です。

 イタリアにとってクリミア戦争とパリ会議の意義は大きく、イギリスとフランスの積極的な支持、オーストリアに対する国際的信用の失墜をもたらしたといえるでしょう。オーストリアはクリミア戦争時、英仏と同盟は結んだものの実際には出兵せず、結果としては英仏ともロシアとも関係の悪化させてしまっていました。プロシアとはそもそもドイツ地域の主導権をめぐって対立していたため、結果としてオーストリアは英仏露普というヨーロッパの列強全てを敵に回してしまったことになり、反対にサルデーニャはフランスからの直接的な援助を始めとする列強の支持(問題への不干渉)を取り付けることに成功しました。

 b)カブールとナポレオン三世

 カブールが対オーストリアという問題を考える時、フランスの援助が必要不可欠でした。その当時のフランスの皇帝がナポレオン三世という人物です。この人物は優柔不断さとお人よしな一面を持つ、イタリアにとっては「厄介な」人物でした。

 このサルデーニャ首相とフランス皇帝の関係はパリ講和会議に始まり、1858年のプロンビエール(アルプス山中の温泉地)の密約で大きく動き始めます。この秘密会談で対オーストリア戦争に向けた具体的な取り決めが定められました。オーストリアをイタリアから駆逐した後は、北イタリアにサルデーニャ王国が統治し、ローマを除いた教皇領とトスカーナは中部イタリア王国となり、それら2王国と両シチリア王国が教皇総裁下にイタリア連邦を形成することとなりました。また、フランスは援助の代償としてサヴォイアとニースの割譲を受け、サルデーニャ王女とナポレオン三世の甥の結婚も取り決められました。この密約は1859年にトリノで正式に文書化されています。(ただし、イタリア問題については実行されず) 
 この秘密軍事同盟はまもなく各国に察知するところとなり、他の列強の干渉により、ナポレオン三世は同盟の破棄を検討し始めます。カブールは先手を打ってオーストリアを挑発し、なし崩し的にオーストリアとの戦争(1859〜1860年)に突入していきました。戦争はソルフェリーノ会戦を代表とするように仏・サ連合軍の優勢のうちに進んでいきましたが、ナポレオン三世の裏切りともいえる突然の単独講和で解放半ばで頓挫してしまいました。カブールはこれに激怒して一度首相を辞任してしまいます。
 独力では戦争を継続できないサルデーニャはしぶしぶオーストリアと講和しチューリッヒ条約を結びますが(オーストリア側もハンガリー動乱など問題を抱えていた)、不完全な解放(ヴェネト州に依然としてオーストリアが主権を持つなど)を不満としたサルデーニャ以外のイタリア各地の暫定政府はこの条約をはね付け、サルデーニャとの合併を前提とした完全統一を目指し続けました。一方、単独講和に踏み切った張本人であるナポレオン三世もこの情勢を積極的に否定もせず、オーストリアも孤立状態となっていきました。イタリア統一国家樹立は、最終段階でカブールを旗手とする漸進的な立憲君主派と、マッツィーニやガリバルディを旗手とする過激で急進的な革命主義派の激しい闘争にゆだねられることになったといえます。

 しかし、最後の裏切り行為を考慮したとしても、ナポレオン三世のフランスとの提携無しに、当時のイタリアの軍事力であったピエモンテ王国が独力で大国オーストリアに立ち向かう事はほぼ不可能でした。しかし、彼はお世辞にもイタリアの救世主といえるような人物ではありませんでした。サヴォイアとニースを売り渡し、悪魔と契約を結んだのがカブールであったとすれば、その買い手である悪魔はナポレオン三世でした。また、カトリック国家としてローマ教皇を保護し、イタリアのローマ併合を阻んだのもナポレオン三世でした。後に、イタリアは普仏戦争のフランス敗戦に乗じて、ローマ遷都を強行しましたが、ナポレオン三世がイタリア人からの信頼を得ることが出来なかったのは明らかです。カブールの外交手腕を評価する上で、強国フランスと結んだ事を評価するのではなく、二流の人物であったナポレオン三世を苦心の末ではありましたが、イタリア独立に有効活用したその点を見るべきでしょう。

 カブールが戦略を建てる上で、確実に動かせるのはピエモンテというヨーロッパの三流の小国に過ぎませんでした。イタリア統一という大目標の達成にはフランスだけでなく、イギリスやプロイセン、ロシアの賛同、少なくとも不干渉が欠かせないものでした。そしてカブールはその中で限られた力、限られた時間で統一イタリアを組みたてることを強いられていた、といえるでしょう。


四、「カブール流」と二人の英雄

 a)統一イタリア観の相違

 カブールにとってのイタリアの近代化、復興運動は必ずしも革命を起こす事ではありませんでした。カブールが同時期のイタリアの2大人物であるマッツィーニ、ガリバルディから、その能力を認められながらも疎まれ、憎悪されていたのは理想とするイタリア像が根本的に違っており、そのためにイタリア統一の戦略がかなり異なったものとなっていたからです。
 イタリアは結果的にはカブール流の統一路線を歩み、他の二者はこれに多大な貢献をする、という形になりました。しかし、マッツィーニやガリバルディは本来、フランス革命的な民衆による蜂起、民衆によるイタリア建国を理想としていました。この理想を高らかに唱え上げたのがマッツィーニであり、それを武力で実行に移そうとしたのがガリバルディでした。カブールは統一の過程で何度も彼らの行動を妨害、弾圧し、その意図を挫きました。そしてその一方で、ガリバルディが成し遂げたイタリア南部解放の成果をピエモンテ王国に吸収させ、ガリバルディとの敵対行動を対外的に逆用する形でイタリアの大半を統一し、列強の意思に反する形でヨーロッパに新たな大国を誕生させました。
 このようなカブールの妨害、強奪行為をどう見るべきでしょうか。見ようによれば反動的ともとれるでしょう。逆に、マッツィーニやガリバルディが急進的だとか過激的と呼べるのも確かでしょう。カブールの意図はあくまで立憲君主国ピエモンテ王国のよるイタリア統一にあり、旧来の秩序の改革にありました。カブールにとっては旧来の秩序を全て破壊し、その更地の上に革命主義的イタリアを打ち建てるというマッツィーニやガリバルディの行動は阻止すべきものだと思えた、ということです。
 このような考え方の違いの一つは出身の違いにも求められるかもしれません。カブールは近代化を推進する立憲君主国の内閣である一方で、名家出身の貴族であり社交界に広く人脈を持つ一流の紳士でもありました。これに対してマッツィーニはジェノヴァの医学者の家に生まれ、ガリバルディはニースの船乗り出身であり、両者ともに庶民層の代表者だったといえます。カブールは旧秩序の中から生まれ出た自発的な改革者であり、マッツィーニとガリバルディは新秩序を求めて立ちあがった革命家であったといえるでしょう。

 しかし、それよりも重要なのは彼らにとっての「イタリア統一」という大事業が持つ意義の差であったと思います。カブールはどこまでも政治家であり、国務を預かる立場の人間でした。彼にとってはイタリア統一は理想でも使命でもなく、自らが預かるピエモンテ王国と立憲主義の自主独立を守る方策の一つに過ぎず、それは決して普遍的な目標ではありませんでした。そのような考え方が同盟国フランスへのサヴォイアとニースの割譲、いわば「イタリア統一のためのイタリア切り売り」という矛盾をはらむかのような政策に繋がったといえます。マッツィーニと特にニース出身のガリバルディにとってはこれは「裏切り行為」であり、ガリバルディにいわせれば「フランスに隷従する臆病者、イタリアとその国民を売った売国奴」ということになります。遡れば、カブールはフランスとの共闘関係のスタートともいえるクリミア戦争の際には、マッツィーニから「イタリア人兵士たちの生命と民族の誇りを外国に売り飛ばした」と非難されることもありました。
 しかし、「カブール流」とはまさにこのような点にあったのだと思えます。彼が民族意識や愛国意識と無縁であったとすることはできないでしょう。しかし、それらを直接の原動力としていたか、といえば否とすることができるでしょう。「イタリアか死か」「ローマか死か」というガリバルディのような殉国的精神、民族的犠牲心といったものとはついに相容れなかったのも当然だといえます。カブールにとってはただ「可能な限りのイタリア」があるのみで、それが一見矛盾ともいえる政策を行なわせたのだといえるでしょう。

 b)責任対情熱

 カブールのような比較的穏健な考え方と、マッツィーニやガリバルディのような純粋で過激な考えかたのどちらが良いのか、というのは答えのない問いかけかもしれません。価値観によって違うといわれればそれまでだからです。しかし、マッツィーニが愛国的な思想家として広く評価される一方でその言動が批判されたり、ガリバルディが南イタリアを解放し、そこを基盤にイタリア民族革命を起こそうとしてかなわなかった理由、つまり南部農民からの不支持などを考えると、マッツィーニやガリバルディが目指したのは現実の前には説得力を失う、無茶な理想ではなかったか、と思えてなりません。世間から好感を持たれ、喝采を浴びる事があっても実際には支持されなかったのがマッツィーニであり、ガリバルディでした。一方のカブールは同時代人からは「低脳」「狡猾漢」「彼の死は神の復讐だ」などの不評と憎悪の目で見られながらも、行動を起こせば大多数の支持を得、口にした事の半分以上はやってのけたと人物だといえます。主君であるヴィットリオ=エマヌエーレ二世ですら、カブールに権限を与えながらも両者は犬猿の仲であり、「信任はするが顔を合わせるのも嫌だ」という関係でした。そのような好悪の感情とは全く別の何かを呼び起こすものをカブールは持っており、マッツィーニやガリバルディは持っていなかったといえると思います。

 その「何か」とは「責任感」ではなかったか、と私は思います。逆にいえばこれはマッツィーニやガリバルディを「カブールに比べて無責任である」としてしまうことでもあります。そもそも、蜂起を煽りたてたり、自分たちの命を「イタリアか死か」というように投機的に扱うのは果たして己の目標に対する責任を持っているといえるのでしょうか。確かに自分の人生と精神を民族革命のために捧げ、肉体と生命を祖国のために投げ出してはいます。しかし、現実との折り合いをつけることなく自らの名声が傷つく事を恐れたり、負けた時のことを考えないという姿勢は無責任と呼ばれても仕方の無いものであるといえます。カブールが大臣に就任した当時、ピエモンテを始めとするイタリアは独立戦争に敗北し、他国に対抗できる国力も軍事力もありませんでした。最初から挫折は約束されており、汚名もまぬがれないような立場にいたのがカブールでした。彼がガリバルディであったなら、命がいくつあっても足りなかったでしょう。

 イタリアや民族というものを純粋に意識し、それを思う心ではマッツィーニやガリバルディの方が強かったのかもしれません。しかし、それを実現させるのだという責任感はカブールの方が強かったのでしょう。マッツィーニやガリバルディは確かに強い愛国心を持っていましたが、彼らにはそれに酔っているところがあり、国策としてイタリア統一を意識していたカブールに比べ、明確な責任意識に欠けていた、といえるでしょう。国策のための統一であれば、サヴォイアとニースの割譲も統一の実現のためにやむをえない、という答えが出てきます。もちろん、カブールのイタリアが永久にサヴォイアとニースを手放す気であったか、というのはありえない話だ、と断言していいと思います。常に段階を踏み、漸進的に事を進めるのが「カブール流」であり、サヴォイアとニースを抱えて「イタリア」の理想と死ぬよりも、一旦手放してでも統一国家として一歩を踏み出し、後に隙を見て強奪すると考える方が現実的なのは明らかだからです(実際、ヴェネツィアとローマも最初は手放していたのですから)。そしてその方が、イタリアの統一、復興という命題に対して、より明確に責任を負っていた、といえるでしょう。


結、カブールの死と彼の生きた意味

 カブールは志半ばに死ぬことになりました。確かに、イタリア統一を現実の目的にまで引き上げ、その清濁包み込んだ政略はオーストリア打倒の原動力となりました。しかし、そもそもが内政手腕でその名声を高めたカブールにとっては、外敵の打倒など百歩ある内の一歩に過ぎず、外見だけ統一国家であった継ぎ接ぎのようなイタリアを一つにまとめ、本来の目的であった「イタリアの復興」を実現しなくては意味が無かった、といえます。特にイタリアは現在も存在する南北格差のように、地域ごとの独自性が極めて強い土地だといえます。歴史的にも地中海の十字路に位置し、各都市はそれぞれ独自の発展の歴史を持ちます。イタリアに割拠した英雄の出身地域をあげていけば、ヨーロッパの主要各国のみならず、東欧や中東をはじめとする遥か東方の名前すら見えることでしょう。また、ローマ教会は統一の過程でその世俗権力を大きく削られたとはいえ、キリスト教の総本山いまだ隠然たる勢力を持っていました。カブールの志とはこのようなイタリアを現実問題として一つにまとめあげることであり、その難事に着手しはじめた矢先に熱病によりこの世を去ることになりました。

 カブールだけでなく、歴史上の英雄というものが万能の超人などではありえない以上、彼が生き長らえて問題にあたったとしても、完全な解決は見られなかったでしょう。現在のような統一国家イタリアが誕生したとはいえ、内部に抱え込んだ社会構造や経済面の地域格差は後々までイタリアの強国への道を阻みました。そういう意味ではカブールは負の遺産を残したともいえます。しかしまた、現在ヨーロッパの大国としてイタリアが存在するのも政治家カブールの遺産であるといえます。カブールの外交は、ピエモンテの大臣としてピエモンテの国益にかなうような戦略の上になされました。しかし、カブールの外交は常に「イタリアとしてのピエモンテ」という立場で為されており、そこに彼のイタリア意識を読み取ることもできるでしょう。彼がイタリア統一の過程でとった政策は、冷酷とも見えるようなものがいくつもあります。それはカブールが理想ではない現実の統一イタリアを思っていたからであり、自らが統一の舵取りをするのだ、という強い責任感を持っていたからに他ならない、といえるでしょう。



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